――1つのターニングポイントだったという『電波少年』ですが、その経験が後に生きたことは何でしょうか?
『電波少年』をやるときに1つだけ思ったのは、「テレビ史にない番組」、つまり「こんなテレビ見たことない」って番組を作ろうということだったんです。それが当たるかどうか全然分からなかったけど、その前に他局の真似してパクって2本失敗してるということもあったので、せっかく自分が1本やるんだったらという気持ちで、それが「アポなし」とか「猿岩石」になったりするんだけど、このスタイルはずっとつながるんですよね。
ヒッチハイクが当たって「またヒッチハイクか?」と言われれば、なすびで室内モノをやって、「また室内で売れない芸人か?」と言われれば、松本人志でアメリカ人を笑わせに行って、「男ばっかりだ」と言われれば、「15少女漂流記」をやって…と、ずっと裏切ることをやり続けてきたんです。
そうしてるうちにインターネットが出てきて、「なすびは撮影のときだけ1時間くらいしか部屋にいなかった」と週刊誌に書かれて「ふざけんな」と思って24時間生配信をやったんですけど、“見たことのないものを作る”というところの延長線上で、新しいテクノロジーはどんどん使っていきましたね。それが「第2日本テレビ」だったり、CSの「電波少年的放送局」だったり、YouTubeを使った「間寛平 アースマラソン」になって、VR技術が出てきたら「1964 TOKYO VR」をやって、「NO BORDER」っていう3Dスキャナーを使ったエンタテイメントを作ったりするわけなんですよ。
――「オリジナルを作る」というところのこだわりと言えば、当時『電波少年』のパクリと言われたフジテレビの『トロイの木馬』に、強烈な皮肉をお見舞いしたのをすごく覚えています。
あの前に、『愛する二人別れる二人』っていう番組がフジテレビであって、それがヤラセと言われて終わったので、「電波少年的愛する二人別れる二人(やらせなし)」って言って、マジで別れそうな夫婦を1週間か1カ月か部屋に閉じ込めて本当に別れるかどうかってやってみようと放送で言ったんです。そしたら、どこかの記者がフジの記者会見で「こういうのを『電波少年』でやってますけどどう思いますか?」って聞いたら、フジの偉い人が「憧れてるんじゃないの?」って言ったらしいんですよ。それを受けて、「そうなんです。電波少年はフジテレビに憧れてるんです。ですから、来週からこれをやります。『電波少年的トロイの木馬』!」ってやったわけです。もう喧嘩上等番組だったから(笑)
でもフジテレビと言えば、やっぱり『めちゃイケ』はすごいなと思ってました。僕、他人の番組って基本的に見ないんですけどね。『27時間テレビ』(04年)で岡村(隆史)くんが最後にボクシングをやったとき、演出者・片岡飛鳥に対してベストを尽くして応えようとする姿があって、ヘロヘロになりながら前に前に出てパンチを出すときに『愛してるよ! 片岡飛鳥!』って聴こえたんですよ。ここまで関係が濃くなるのかと思って、それはたけしさんと伊藤さんや、(明石家)さんまさんと三宅(恵介ディレクター)さんとはまた違うもので、あれを見たときに「わあ、番組ってここまでできるんだ。俺にはできないなあ」と思ったんです。僕は勝手に売れない芸人を連れてきて、追い込んで追い込んで生きるか死ぬかっていう手法だから愛されないんですよ(笑)。だから、尊敬する演出家の1人は、やっぱり片岡飛鳥って言いますね。
――交流はあるのですか?
やっぱり興味あるから話してみたいんですよ。それで、辞める前にフジテレビに行って2回くらい会って、食堂で2人でしゃべってたら、周りがザワつきはじめて面白かったけど(笑)。春に彼がフジを辞めてからも2~3回会ってます。鎌倉に来て、一緒に飯食ったりして。
――2人ともフリーの立場になったわけですから、何か一緒にやろうみたいな話にはならないのですか?
一緒にやることはないと思いますね、やっぱ合わないから(笑)。手法が違うので、どっちのやり方でやるんだってケンカになる。でも、彼が作るものは気になるし、彼も「『電波少年』のあれってすごかったですよね」って話をしてくれるわけで、演出家同士って話しててやっぱり面白いんですよ。いい年して鎌倉のカフェで延々しゃべってましたから(笑)
■“出る側”になったきっかけは有吉弘行のひと言
――『電波少年』からブレイクした有吉弘行さんは、今やMCとして各局から引っ張りだこの売れっ子になりましたが、当時の印象はいかがでしたか?
よく「有吉さんを見つけたのは土屋さんでしょ?」とか「やっぱり売れると思ったんですか?」とか言われるんだけど、僕が必要だったのは、半年間スケジュールがあったお笑い芸人2人で、オーディションで「広島から出てきて、東京ドームのゲートの屋根の下で3日野宿したことがあります」と言われて選んだだけだから。まあ、「猿岩石」って名前の付け方も面白いなと思って、多少の直感はあったかもしれないけど、本当にそれだけなんですよ。
それで、ヒッチハイクでユーラシア大陸横断を達成して、帰ってきて大ブレイクして、1年間いろんな番組に呼ばれてるときに、有吉から明らかに「自分たちはここにいるべきじゃない」って嫌々出てるのが分かって、どんどん人気が落ちていってかわいそうだなと思いながら見てましたよ。
――そのときに、土屋さんから何かアドバイスしたことはあったのですか?
いや、なかったです。だから、後に有吉から「土屋さんはあの時何にもしてくれなかった」って言われましたもん(笑)。それは、『電波少年』では制作者とタレントとしてお互い必要な部分だけでやってたから。ただ、あいつはどう思ってるか分かんないけど、ゼロでスタートして、ヒッチハイクで帰ってきてものすごく売れるけど、実力が伴ってないからもう1回ゼロになる。そこから3年くらいほとんど仕事がなくて、上島竜ちゃんとかに面倒見てもらってたんだけど、その間ずっと外に出ないでテレビ見てツッコんでて、そっから内村の深夜番組(テレビ朝日『内村プロデュース』)で「猫男爵」で悪口言ってあだ名付けてみたいなことで今の位置に行くわけじゃないですか。
でも、僕が使った後に1回上がってからゼロに落ちるのと違って、もし最初の売れてない頃からゼロがつながってたら、売れたときを知らないから、そんなにつらくなかったはずなんです。人気があったのに「こいつ、つまんねーんだ」ってみんながどんどん離れていく経験をしてるから、ゼロからもう1回上がっていくときのパワーが違うんですよ。「もう二度とゼロには行きたくない」ってパワーが出て、すごく丁寧に仕事もするから、今の位置があると思うんですよね。考え方によっては、僕が上げてゼロに下がったおかげで今があるから、あいつは僕に感謝すべきだ、なんてこじつけて思ってます(笑)
ただ僕、今こうやって出る側の人間になったじゃないですか。それって有吉のひと言がきっかけだったんですよ。
――どんなひと言だったのですか?
「香港からロンドンまでヒッチハイクで行ってください」って生放送でスタートしたんだけど、そんなことやった人もいないし、本当に行けるかどうかなんて分かんなかったから、当時まだ深センとの国境が香港にあった頃で、その国境に着くタイミングで待ち合わせて、猿岩石の2人と会ったんですよ。「ここを越えると、なかなか引き返すのは難しいぞ。本当に行く気があるんだったらいいけど、もうここ4日くらい野宿してるわけだから、つらかったら俺と一緒に帰ろう」と言うために。
――選択肢を与えたんですね。
勢いでスタートしたものの、何が起こるか分かんないし、本当に死んじゃうかもしれないから、本人たちの「行きます」という言葉がないと、僕も行かせられない。だから、「本当に行くのか、それとも帰るか」と聞いたんです。そしたら、有吉と森脇は「行きます」と言って、検問所を通って行ったんですよ。
そういうことがあって、ゴールして帰ってきたときに「なんで最後まで行ったの?」って聞いたら、あのときの「本当に行くのか、帰るのか」っていう僕の言葉があったそうなんです。何日も何日も野宿してるときに、夜に「明日になったらもうやめよう」って何度も思ったけど、そのときに僕の顔が浮かんで、「お前は自分で『行く』って言ったけど、やっぱりダメだったんだな」と言われると思って、最後まで行ったんだと有吉が言うんです。
あいつはもう覚えてないかもしれないけど、やっぱり「誰が行かせたか」「誰と約束したか」というのが重要なんだと思って、それ以降、ドロンズ、朋友とヒッチハイクをするときに、僕が出てきて「やりますか、やりませんか」と聞いて、「やります」と言ってスタートさせるっていう形が決まりました。それまで僕は一切画面に出てないんですけど、ここから「Tプロデューサー」という名前が付き、なすびにしても全ての企画で僕が出てきて、「アイマスク取ってください」と言って聞くというフォーマットになったんですよね。
――他にも土屋さんとお仕事をしてきたタレントさんで言えば、出川哲朗さんも今の位置になることは、全く想像できなかったですよね。
哲ちゃんは本当にひどいロケをずっとやってきましたけど、『電波少年』の時代からやっていた『イッテQ』の古立という優しい演出家が丁寧に描いてあげたら、そこに年齢を重ねて昔の嫌な感じが抜けてきて、キュートに見えてきたんだと思います。本当に、あの当時は死んでも誰も覚えてないんじゃないかと思っていろいろやらせてたのに(笑)、今やあれだけCMをやるようになって、人ってどうなるか分からないから面白いもんですよね。