――9月末で、長年勤められた日本テレビを退社されました。

60歳で1回定年があって、その後契約形態が変わって「シニアクリエイター」っていうのを5年やって、65歳で終わるはずだったんだけど、現場が「もうちょっとやってくれませんか?」と言ってくれて、66歳まで1年延長されたんです。これで終了ということなんですけど、これからもまだ社外のアドバイザーとして契約してくれて、優しい会社なんです。でも僕がうれしかったのは、昔の功績じゃなくて、今だから必要だと言ってくれること。ネットとかVRとか、新しい技術のコンテンツの蓄積と、それを実際に事業にしてる人がなかなかいないから、そういう人脈や経験が求められたというのが、良かったなと思うんです。

――社外アドバイザーとして、今後日テレにはどう関わっていくのですか?

この前、ウェビナーをやらせてもらって、「これからテレビは生きるか死ぬかの形になるわけだから、めっちゃ面白くなってくる。その中でプレイヤーである君たちが本当にうらやましい」という話をしたんですけど、僕はアドバイザーだから、「必要なときにオファーください。そしたらそこに行ってベストを尽くします。だけど、こっちから『これをやろう』と言うつもりはないです」という受け身の感じですね。ほかにも、『電波少年W』をやらせてもらったWOWOWで新規事業のアドバイザーと、豊田市のケーブルテレビの「ひまわりネットワーク」でもアドバイザーをやることになりました。実はこのケーブルテレビが面白いと思ってるんですよ。

――それはなぜですか?

インターネットができて世界が変わったじゃないですか。それは知識とか意識の部分で、例えばBTSとか韓流ドラマとかガンダムのファンが世界中とつながって、情報のやり取りができるようになった。一方で、人間には肉体というものがあって、そのベースはやっぱり、自分の町になってくるんですよ。僕は15年前に鎌倉に引っ越して、(面白法人)カヤックの柳澤(大輔)くんと「カマコン」っていう地域活性化プロジェクトをやってるんですけど、そうすると住んでいるところで格段にたくさん知り合いができるんです。それまでは会社中心だったんだけど、こうなると“自分の町”って感じがするんですよね。この逃れられないコミュニティを愛する方法ってなかなか誰も提案してくれないんですけど、それができるのが実はケーブルテレビだと思うんです。

――なるほど、地域密着ですね。

ケーブルテレビって市の単位なので、そこに出てくる人間が「どこ中のあいつ」っていう関係になってくるんですよ。そうなると、どこかのラーメン屋が年寄りで辞めようとしてるから、この味を残すために継承できる人を探そうよとか、豊田市出身で吉本の芸人が6~7人いるから、そいつらが自撮りでもいいから「M-1、2回戦行きました」みたいな情報を出すとか、今度公開される映画の主役の向こうでコーヒー飲んでるのが豊田市出身ですとか言われると、地元の人はワクワクするじゃないですか。そういう番組を作っていこうと思ってるんです。

今までケーブルテレビは、お金もないからキー局の劣化コピーみたいなことをやってたけど、出るタレントなんでどうでもいいんだと。豊田市って年に1回大きなお祭りがあって、市民なら誰でも歌える「おいでん」っていう歌で町対抗で踊って、優勝を決めるんです。これが、ケーブルテレビが異常に見られる生中継で、接触率40%というキラーコンテンツなんだけど、年に1回だけじゃもったいない。何連覇してる町はもう練習に入ったとか、2位だった町は有名な振付師を呼んで練習してるとか、いろんな物語があるから、もう1年間レギュラーにして追いかけようと。

――土屋さんがやっていた『ウッチャンナンチャンのウリナリ!!』の「ドーバー海峡横断部」や「芸能人社交ダンス部」だって、本番だけじゃなくて練習からずっと追いかけてたわけですもんね。

そうそう。小学生だったかわいい女の子が「うちの町は1回も勝ったことないから、私がセンターやります!」って言う中学生の物語とか、きっとそういうのがあるんですよ。

――ほかにも、WOWOWさんから引き継いで「みんなのテレビの記憶」の事業を始められています。

僕らの子どもの頃のテレビって、「学校で仲間外れになるから、頼むから見せてくれ」っていうほど、本当に自分の人生の中心だった時期があるんですよ。そのことを、吐き出してまとめたいんですよね。「あの頃あんな番組があったよね」とか書き込んだ感想に対して、「そうそう、それで思い出したんだけどさ」って、ウェブ上でお互いの記憶が増幅されて盛り上がる中で、当事者が出てきて「あれはね…」って交流の場ができるといいなと。で、作り手の人たちの記憶も残すために、一発目は齋藤太朗さんに出てもらってます。『シャボン玉ホリデー』『ケバケバ90分!』をやって、その後『カリキュラマシーン』を自分で作って、『ズームイン!!朝!』『仮装大賞』をやった僕の大先輩なんだけど、僕らが入った頃のテレビ局ってむちゃくちゃだったから、すごい話が聞けると思って。

――さらに、「NO BORDER」は3年ぶりに再演の話があり、「1964TOKYO VR」でも構想があったりと、ますます精力的に活動されていくことになりますね。

欽ちゃんがコント55号から1人でやることになって、当時の(所属事務所・)浅井企画の社長に「俺はコメディアンだから、司会の仕事は受けないでくれ」って頼んだんだけど、司会の仕事しか来なかったそうなんです。しょうがないから司会をやったら、『(オールスター)家族対抗歌合戦』で素人の面白さに気づいて、『スター誕生!』で素人のドキュメント性に気づいて、『欽ドン』『欽どこ』『週刊欽曜日』につながるわけなんですよ。そこで欽ちゃんがよく言うのは、「嫌だなあと思う仕事に運がある」。だから僕も、ニチエンプロダクションに文化人枠で業務提携してくれと言われて契約することになって、「何をやりたくて、何をやりたくないですか?」って聞かれたんですけど、「何でもやるよ」と言ったんです。欽ちゃんイズムで言えば、「これ嫌だな」と思うところに、発見があるかもしれない。そんな気持ちでやっていきたいですね。

  • 萩本欽一(右)と

――この前、フジテレビの港社長にお話を聞いたら、「70歳になったけど、今の人は8掛けだと思ってるから、56歳の気持ちでやってる」とおっしゃっていました。

なるほど。僕は「マイナス15」って言ってるんですよね。とは言いながら、基本的にやっぱりジジイは次の時代を作る若い人の邪魔をしちゃダメだというのはすごく思ってるので、若いやつが来ないようなケーブルテレビとかでやっていこうと。一方で、50を過ぎてからわりと意識してたのは、1年に1個必ず新しいことを始めるとか、ジジイ・ババアだけで集まらないということ。さっき言った「カマコン」って、これから起業しようと思ってる30代の人とかとフラットに付き合えるので、そういう集団の中で社会とつながるって大事だと思うんですよね。

――金髪にしたのも、結構前ですよね。

白髪になっていくと、鏡見てへこむんですよ。だから金髪にしちゃって、「俺、まだまだ若いじゃん」って錯覚しようと思って。たけしさんも所(ジョージ)さんも松本(人志)もそうじゃないですか。だから、「50代になったら金髪運動」もしていきたいのと、好きなときに死なせてくれっていう「安楽死協会」もやりたい。年寄りが増えて困るんだとしたら、もうこれでいいやって人は「人生の美学として、あと1年だけ生きて終わります」って言えたら、金も全部使い切れるし、自分がどう生きたかという証もちゃんと残せるし、いろんなことが健全にできる気がするので、それもやってみたいことの1つ。若いやつが「安楽死させよう」って言ったら怒られるけど、自分の話だから主張もしやすいかなと思って。

■ドラマは韓国に抜かれても、日本にはバラエティがある

――ネットを含めいろんなメディアに携わってきた土屋さんですが、テレビの役割というのはどのように感じていますか?

テレビって、やっぱり見たことのないものを見せるものだと思うんですよ。だから『電波少年』で「こんなテレビがあるんだ」ってやってドキュメントバラエティ的な時代の中で、テレ朝の加地(倫三)くんがスタジオでやるんだと言って、ひな壇芸が生まれる(『アメトーーク!』)。そうやって、ある種のアンチテーゼでいろんなものが生まれてくると思うんですけど、最近は「こういうものがウケてる」とか「こういうものがあるから」ってやるようになって、新しいものを見せてくれてワクワクするものじゃなくなってきたんじゃないかと思うんです。だから、日本テレビであれフジテレビであれ、配信路は地上波とかインターネット関係なく、「あそこは見たことのないものを見せてくれるんだ」という発信元である限り、テレビ局の価値はあると思いますね。

それと、映像コンテンツは韓国にこれだけ抜かれたといっても、考え方によってはそれがお手本としてあるわけじゃないですか。Netflixや他のプラットフォームで韓国のドラマがすごく大きな作品になってるけど、日本にはバラエティがある。それはテレビ局中心じゃなくてもいいんだけど、日本のバラエティを世界に出すというのをやってほしいのは、切なる願いですね。

――それこそ『電波少年』の企画は、「懸賞生活」とか世界に通用するコンテンツだと思います。

実際、2000年くらいにアメリカからやりたいってオファーがあったんですよ。でも、「あんな恥ずかしい国辱モノを出せるか」って反対した部長がいたせいで、出せなかったんですよね。そのことを僕は今でも恨んでますけど(笑)、まあ、これも運命だから。

僕は、朋友でヒッチハイクをやって、それを香港でずっと放送してたから、今でもチューヤンは香港で人気者なんですよ。それで、2002年に「15カ国少女漂流記」(※)っていうのをやって、それをネットとかで15カ国でも流してくれって言ったんだけど、うまくいかなかった。だから、20年前から世界でやろうと思ってたんですよね。

(※)…15カ国から集められた少女たちが無人島を脱出する企画

――それこそ「松本人志のアメリカ人を笑わしに行こう」なんて企画もやってたくらいですし。

やっぱりコンテクストとして、日本のバラエティやお笑いは高いレベルだと思ってるんですよ。だから、これを読んでくれている作り手や、これからテレビや映像の作り手になろうと思ってる若い人たちに、どんどんやってほしいですね。

――昨今は「コンプライアンス」が叫ばれ、当時の『電波少年』のようなアポなし企画はできないとよく言われますが、当時から今に至るまで現役の土屋さんから見て、実際に「コンプライアンス」の考え方は変わってきていると感じますか?

変わってきてるでしょうね。原因は複合的だと思うんですけど、1つはインターネットで、抗議やクレームが可視化されるようになったこと。昔なら手紙と電話で、「抗議が何本ありました」っていうのは社内資料だったけど、2ちゃんねるができて、スポンサーに電凸するという手も生まれた。さらに、インターネットが出てきたことによって、テレビが公共性を強く求められるようになったということもあると思います。

それと、こう言ったらちょっとかわいそうかもしれないけど、根性がなくなったというのもあるかもしれない。これは日本全体の問題だと思うんだけど、自分で責任を取りたくない、1つ「×」がついちゃうともう1回浮き上がれないというのがあるから、全部上に相談してOKしたものだけをやろうとする。そうすると、「これはやめとけ」って話になるわけで、これをテレビ局がどんどんやっちゃうと、新しいものが生まれなくなってきますよね。

――局長に歯向かって『電波少年』を続けた土屋さんだからこそ、説得力があります。ご自身が影響を受けた番組を挙げるとすると、何でしょうか?

『アメリカ横断ウルトラクイズ』ですね。やっぱり負けた人が砂漠で歩いて帰らされるっていうあの画は、どこか『電波少年』につながってるところがあると思います。

――『ウルトラクイズ』『元気が出るテレビ』『電波少年』『イッテQ』と、ドキュメントバラエティが脈々と受け継がれているのが、日テレの強さの1つですよね。

日本テレビはドキュメントバラエティが強くて、フジテレビはコントが強いとか言いますけど、日テレでも『シャボン玉ホリデー』とか『ゲバゲバ90分!』とか、白井荘也さんという演出家がやってた『カックラキン大放送!!』とか、スタジオコントを作ってたんですよ。でも、「日本テレビでコントはできない」ってずっと言われてきたじゃないですか。だから、いつ切れちゃってもおかしくないんですよ。

――フジテレビも『新しいカギ』がなかったら、切れるギリギリのところだと言ってました。『イッテQ』の古立さんの次の演出家が継いでいかなければ、いうことですね。

それも自分なりのものを見つけてですよね。だから、『元気』と『電波』が違って、『電波』と『イッテQ』が違うのは、演出家の違いなんですよ。

――いろいろお話を聞かせていただき、ありがとうございました。最後に、気になっている“テレビ屋”を伺いたいのですが…

テレ東を辞めた上出遼平さんですね。『ハイパーハードボイルドグルメリポート』では「ダメだよ! ヤバイよ!」っていうのをやってたし、本も書いてるし、最近だとナイキの映像を撮ったり、『エルピス』(カンテレ)のエンディングもやってるし、すごいですよね。次回作を楽しみにしてます!

  • 次回の“テレビ屋”は…
  • 元テレビ東京・上出遼平氏