テレビ画面を注視していたかどうかが分かる視聴データを独自に取得・分析するREVISIOでは、14日に放送されたNHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』(総合 毎週日曜20:00~ ほか)の第23話「さらば半兵衛」の視聴分析をまとめた。
「風が、変わりまする」
最も注目されたのは20時38分で、注目度75.6%。宇喜多直家(緋田康人)の寝返りによって、小一郎(仲野太賀)と秀吉(池松壮亮)に勝機が巡ってくるシーンだ。
「私が風向きを変えてみせまする」平井山に置かれた秀吉の陣中で竹中半兵衛(菅田将暉)がつぶやく。毛利家の支援を受ける三木城の別所長治(下川恭平)を、秀吉は攻めあぐねていた。死期を悟った半兵衛は、最期を戦場で迎えたいと願っている。床に伏せたままで戦況を見通す半兵衛は、かすれた声で「頼みます。行かせて…くだされ」と秀吉に懇願した。息も絶え絶えだが、その眼光はなおも鋭く輝いている。
小一郎と秀吉はそんな半兵衛の願いを聞き入れ急ごしらえの輿を用意し、家臣たちとと共に半兵衛を担いで平井山を登り始めた。「何でわしがお主を担がねばならんのじゃ。これは貸しじゃからの! すぐに返すのじゃぞ!」蜂須賀正勝(高橋努)がぼやくと輿の周りは笑いに包まれる。やがて頂上に着くと戦場が一望できた。「やはり押されているのう」小一郎がこぼす。それを聞いた半兵衛は、扇を持つ手をゆっくりと持ち上げた。「風が、変わりまする」
その瞬間、一陣の風が吹き抜けた。「申し上げまする!」伝令は藤堂高虎(佳久創)だった。「今、味方より知らせが! 宇喜多直家殿が、我らに寝返りました!」その一報を聞いた秀吉たちは色めき立つ。直家は織田側から差し出された想定をはるかに上回る銭に心を動かされたようであった。毛利との盟約も完全に反故にするつもりである。かつて半兵衛の進言で押さえた生野銀山。そこからもたらされた莫大な資金によって、戦局の風向きは大きく変わろうとしていた。
「さすが戦国随一の梟雄」
このシーンは、戦国三大梟雄の一角・宇喜田直家の言動に、視聴者の注目が集まったと考えられる。
1578(天正6)年から始まった別所長治との三木城の戦いは1年経っても膠着状態が続いていた。三木城に籠城する長治は毛利家の支援を受けていたのだ。史実では秀吉の軍勢が数万に対し、長治側は1万に満たない数だったが、押し切ることができなかった。しかし、半兵衛の調略で直家が寝返ったことで戦況は一変。もともと毛利家当主・毛利輝元(濱正悟)と反りの合わない直家はあっさりと織田側へつくことを選んだ。
SNSでは「輝元、潔癖なんだな。裏切り・暗殺・闇討ちの代名詞とまで言われた直家に信義を説くのは無意味だよ」「さすが戦国随一の梟雄、直家なら寝返りは朝飯前だね」「直家ならむしろ寝返らない方が違和感ある」と、史実通りの直家にコメントが集まった。
宇喜多直家は1529(享禄2)年に備前の国人・宇喜多興家の子として生まれた。斎藤道三(麿赤兒)、松永久秀(竹中直人)と並ぶ戦国時代屈指の梟雄として有名だ。主君であった浦上家を実質的に追放し、岡山周辺を支配下に置いて宇喜多家を地方豪族から中国地方有数の戦国大名へ成長させた。実弟の宇喜多忠家は、直家と対面する際には着衣の下に鎖帷子を着こんでいたほど兄を警戒していたそうだ。
一方で、直家には領国経営者として優れた一面もあり、焼失した金山寺や吉備津彦神社の再建に資金を提供したほか、城下に商人を呼び寄せて城下町の整備を進めるなど、備前・美作の発展に尽力している。また、戦国大名としては珍しく側室を持たず、一人の女性を生涯愛し続けたという逸話も残されている。
今回、小一郎と慶の娘をおぼつかない手で抱いていた半兵衛だが、史実では竹中重門という息子がいた。重門は1573(天正元)年に生まれたが、1579(天正7)年に父・半兵衛が死去したため、半兵衛の従弟である竹中重利が後見後見を受けて成長した。後に豊臣秀吉に仕え、小牧・長久手の戦い、小田原征伐などに参加した。関ヶ原の戦いでは当初西軍寄りだったが、最終的に東軍へ転じて幼なじみである黒田長政と共に功績を挙げた。元服の際には父の盟友であった黒田官兵衛が烏帽子親を務めた。竹中家・黒田家は父子二代に渡って親交を深め続けたのだ。儒学者である林羅山に師事した教養人だった。重門は文筆に優れた才能を持ち、秀吉の伝記である『豊鑑(とよかがみ)』を記している。竹中家は旗本として江戸時代も存続した。

