では、その儀式の場がなぜ、夏祭りだったのかも考えてみたい。夏祭りとは、地域共同体の祝祭だ。家族がいて、友達がいて、恋人がいて、みんなで笑う。それは仲村と春日が「ニセモノ」と感じ続けてきた、“普通の幸せ”の最も純粋な結晶だった。2人が否定したかったのは、その幸せの自明性。誰も疑わず、誰も問わず、ただ笑って花火を見上げる――その無邪気さの奥に潜む偽善の構造を、2人はどうしても許せなかった。
そして、やぐらに登った意味はこうではないだろうか。やぐらは祭りの中心であり、共同体の心臓部。そこに登り、包丁を掲げ、叫び、灯油を浴びる。これは、「お前たちが信じている幸せは、全部嘘だ」という宣戦布告に他ならない。春日にとっては、体操着窃盗以前から抱えていた欲望と自己嫌悪、「向こう側」へ行けなかった失敗、佐伯への裏切り――すべての蓄積がここで爆発した結果だ。
そして焼身未遂は、「向こう側」へ行けなかった自分たちも、つまるところ“クソムシ”に過ぎなかった――その事実を焼き尽くし、それでもなお世界に自分たちの存在を刻みつけようとする、浄化の儀式であり、2人なりの愛の告白だった。
しかし、それは未遂に終わった。自分の醜さを世界に見せつけ、それでも理解されたいと叫んだ思春期の絶叫が、社会へ届かなかった。祭りのけん騒の中で、ただ制圧され、消えていった。ゆえに春日の心は再び闇へと堕ちる。2人が叫んだのは憎悪ではない。誰にも見つけてもらえなかった人間の、あまりにも孤独なSOSだったのだから──。
常磐文という“救済”、そして中西アルノという選択
中学生編が終わり、いよいよ高校生編が始まった。ドラマでは説明されていないが、本作は漫画家・押見修造氏の原作にかなり忠実であるため、ドラマ中でも町を引っ越したことになる。
ここでいよいよ、乃木坂46の中西アルノが登場した。中西が演じるのは、学園のマドンナである常磐文である。原作では、この常磐がかなり重要なキーパーソンとなる。そして実際、原作通り、春日は、本屋でボードレールの『惡の華』を読む常磐を発見する。
X(Twitter)では、中西の出演を待ち望んでいたファンから「やっと登場か!」「やっと中西アルノが見られる」「メンバーの中にいると忘れがちだけど、やっぱり可愛い」「アルノちゃんが闇や毒を感じるキャラを演じるのが楽しみ」「可愛すぎて内容が入ってこない」「可愛いけど目の奥に影があるのがいい」と、かなり話題になっている。
原作における常磐文は、一見すると"仲村の対極"に置かれた存在だ。仲村が「世界を否定する怒り」を体現するなら、常磐は「世界を肯定しようとする意志」を持つ。だが、それは単純な"癒やし系ヒロイン"ではない。
常磐もまた、人間の暗部から目を逸らさず、それでも他者とつながろうとする覚悟を持った人間として描かれている。春日にとって常磐は、仲村が「向こう側」への扉だったとすれば、「こちら側」に引き戻そうとする、もう一本の手だ。この2人の女性の間で引き裂かれることが、高校生編における春日の本質的な苦悩となる。
そのキャスティングとして、中西アルノは実に興味深い。アイドルグループのメンバーでありながら、彼女からは、どこか陰のある静けさを感じさせる。
ファンのコメントにあった「目の奥に影がある」という言葉は、おそらくキャスティングの核心を突いている。常磐文という役は、表面の清潔感と内面の深さが同居していなければ成立しない。中西が持つ、アイドルとしてのかわいらしさと、その奥にある翳(かげ)りのようなもの――そのアンビバレンスが、常磐文という人物の二重性と、奇妙なほど重なる。
夏祭りの炎が消え、春日の絶叫が社会に届かなかったあの夜から、物語は新しい問いを立てる。「向こう側」へ行けなかった人間は、どこへ向かうのか。常磐文は、その問いに対する最初の光なのかもしれない。そして中西アルノが、その光の中にどれだけ影を宿せるのか。高校生編の見どころは、まさにそこにある。





