注目を集めるテレビ番組のディレクター、プロデューサー、放送作家、脚本家たちを、プロフェッショナルとしての尊敬の念を込めて“テレビ屋”と呼び、作り手の素顔を通して、番組の面白さを探っていく連載インタビュー「テレビ屋の声」。今回の“テレビ屋”は、制作会社・いまじん社長の中山準士氏だ。
駆け出しの頃の嵐や『ザ・ノンフィクション』の取材対象がスターになっていくのを目の当たりにしてテレビの力を感じ、「面白いものより、見たいもの」「後味の悪いものにしない」という意識で、『行列のできる相談所』や『1周回って知らない話』など、様々なヒット番組を制作してきた同氏。一方で制作会社の経営者としての顔も持つが、メディア環境が大きく変化する今をどのように捉えているのか――。
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中山準士
1976年5月28日生まれ。早稲田大学卒業後、2000年にいまじん入社。以来、『真夜中の嵐』『行列のできる相談所』『誰も知らない明石家さんま』『1周回って知らない話』『24時間テレビ』(日本テレビ)、『世界を変える100人の日本人! JAPAN☆ALLSTARS』(テレビ東京)などを担当し、21年11月にいまじんの代表取締役社長に就任した。
ボロボロだった「珍獣ヌーンヴァンヴァ」でのディレクターデビュー
――当連載に前回登場した日本テレビの内田秀実さんが、中山さんについて「会社の社長でありながら、バラエティのディレクターとして第一線で活躍していて、すごいバイタリティだなと思いながらいつも一緒に仕事をしています」とおっしゃっていました。社長業とディレクター業は、今どれくらいの割合ですか?
半々ですね。社長になって4年目に入ったのですが、当初からディレクター業も続けると決めていました。『行列』が3月で終わってからは、特番や配信系や新規の企画をやっています。マネジメントは番組作りより大変なんですが、周りのスタッフが本当に優秀なので、半々の割合でできています。本当に感謝しかないです。
――社長業のお話はまた改めて伺いたいと思うのですが、この業界はどのような経緯で目指したのでしょうか?
大学時代、体育会のサッカー部に入ってプロサッカー選手になりたかったんです。澤穂希さんの旦那さんの辻上裕章(元ベガルタ仙台・現福島ユナイテッド副社長)はチームメイトで親友なんですけど、自分のレベルはそんなところに達していなかったので諦めたのですが、特にやりたい仕事もなくて。そんな中、父親がテレビ好きだったので、テレビ業界も面白いかなあと思ってたんです。
2000年頃の当時は、放送作家という職業がすごく注目を浴びていたんですね。高須(光聖)さんや、おちまさとさんなどが表に出て活躍している時代だったので、放送作家になろうと。なんか「作家」ってカッコいいじゃないですか(笑)
――大御所になれば「先生」と呼ばれますし。
でもなり方が分からなかったんです。そこでテレビ局にいる先輩に聞いたら、制作会社に入って番組に配属されたら、会議に放送作家が4~5人必ず来るから、そこで弟子入りすればいいと言われて、あいうえお順で制作会社を受けました。
――「い」まじんは早いですね(笑)
僕を採ってくれた当時のいまじんの柏井(信二)社長は「うちの会社は何でもやっていい」と言ってくれたので、それを拡大解釈して、「いまじんは放送作家にしてくれるかもしれない」と思って(笑)。内定をくれたのも一番早かったので決めました。
――入社されてADさんからのスタートだと思いますが、最初に就いた番組は何ですか?
『ヤミツキ』(中京テレビ・日本テレビ系)というテリー伊藤さんと郷ひろみさんが出ていた深夜番組です。テリーさんは出演者ですけど、元々ディレクターですから、結構企画に対してダメ出ししていました。その番組の放送作家は、そーたにさん、都築浩さん、鮫肌文殊さんといった錚々たるメンバーで、「まさに神から与えられた現場だ!」と思って会議に行って、作家さんの書く企画書を「面白いなあ、こういう感じなのか」と見ていました。
でも会議が始まると、総合演出と呼ばれるディレクターが、作家さんの出した企画を「これは面白い」「これやってみよう」と瞬時に判断していくんですよ。それを見て、番組を統括するすごい仕事で面白そうだなと心変わりして、今に至ります。
――『ヤミツキ』は2001年3月で終了しました。
その後、『真夜中の嵐』という嵐の日本テレビの初めてのレギュラー番組が立ち上がるということで、チーフADとして入りました。嵐とスタッフの初顔合わせの時に、部屋に入ると櫻井翔くんが起立して「僕たち何でもしますので、厳しくご指導ください!」と言ったんですよ。タレントさんで、ましてやあの大きな事務所で将来を約束されたような5人がそういう姿勢なんだと衝撃を受けて、すごいなと思ったのを覚えています。
――この番組で、ディレクターデビューでしょうか。
はい。『真夜中の嵐』は、真夜中の日本で何が起きているかというのを自転車で北上しながら突撃していく番組で、演出の東井文太さん(日本テレビ)と高谷和男さん(現在はHuluを運営するHJホールディングス社長)にロケの仕方とか構成の作り方や編集の仕方を教えてもらって、ディレクターとして最初に担当したのは二宮(和也)くんの回でした。那須高原で夜になると変な鳴き声が聞こえてくるという話を聞いて、「那須高原に潜む…珍獣ヌーンヴァンヴァを捜せ!」という企画でしたが、ロケも編集も全然うまくいかなくて、ボロボロでした。
バラエティを担当しながら『ザ・ノンフィクション』も制作
――そんなスタートから、最初に手応えを感じた仕事は何ですか?
当時の柏井社長から「中山はドキュメンタリーもやりなさい」ということで、3~4年目の頃に『ザ・ノンフィクション』(フジテレビ)を1人で作れと言われたんです。僕はドキュメンタリーをそんなに見ていなかったので躊躇(ちゅうちょ)したんですが、六本木のホステスに1年間密着して、これが面白かったんですよ。主人公の一人が小雪さんという中国人の方だったんですけど、その放送の反響をきっかけに人気ホステスになって、テレビに出るようになって、ビジネスも始めて、大成功を収めていくんです。
嵐もそうだったんですけど、スターになっていく人を見れる景色は面白い仕事だなと思ったのと同時に、人の人生を左右する仕事でやっぱり生半可な気持ちじゃダメだと思いました。
――バラエティとドキュメンタリーを並行して作ることで、相互に作用することはありましたか?
根本は一緒だなと思いました。ドキュメンタリーをやってる人はバラエティも作れるし、バラエティをやってる人はドキュメンタリーも作れる。『真夜中の嵐』は、ドキュメントバラエティみたいな番組でしたし、あの時に柏井社長が「大丈夫だからやれ」と言っていた意味が分かって、すごく大きな経験でした。
その後、テレビ東京で『世界を変える100人の日本人! JAPAN☆ALLSTARS』という番組を担当しました。世界で活躍する日本人を紹介するという内容で、どういう人生をたどって今に至るのかを深掘りしていくので、これもドキュメンタリー要素があったんです。やっぱりすごい人はとても謙虚で、そういう立場になっただけの理由が分かるんですよね。