注目を集めるテレビ番組のディレクター、プロデューサー、放送作家、脚本家たちを、プロフェッショナルとしての尊敬の念を込めて“テレビ屋”と呼び、作り手の素顔を通して、番組の面白さを探っていく連載インタビュー「テレビ屋の声」。今回の“テレビ屋”は、放送作家の高須光聖氏だ。

幼なじみであるダウンタウンの番組を皮切りに、数々の人気バラエティを第一線で手がけながら、映画、小説、作詞、CM、ライブ、イベント、ネット、官公庁のプロジェクトまで、テレビにとどまらない活躍を見せる同氏が描く今後のビジョンとは。さらに、これまでのキャリアで印象に残る番組、芸人、テレビマン、そして改めて語るダウンタウンのすごさとは――。


■スマホの登場で一気に変化、特許取得も

放送作家の高須光聖氏

高須光聖
1963年生まれ、兵庫県出身。龍谷大学卒業後、幼少の頃より親交のあったダウンタウン・松本人志に誘われて、24歳のときに『4時ですよーだ』で放送作家デビュー。28歳より拠点を大阪から東京へ移し、『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!』『水曜日のダウンタウン』『IPPONグランプリ』『笑ってはいけないシリーズ』といったダウンタウンの出演番組のほか、『めちゃ×2イケてるッ!』『ウンナンの気分は上々。』『ロンドンハーツ』『NHKスペシャル』などの人気番組を手がけ、現在もバラエティを中心に十数本のレギュラー番組を担当。TOKYO FMでラジオパーソナリティーも務めるなど、様々なジャンルで活動している。

――当連載に前回登場したIVSテレビ制作の中村秀樹さんが、高須さんのことを「活動の幅がテレビだけにとどまらない、そこの原動力はどこにあるのでしょうか」とおっしゃっていました。

中村さんとはGYAO!で一緒に『完全車内同棲 LOVEドライブ』という番組をやりましたからね。ヤフーの川邊(健太郎)社長と、彼が新入社員くらいの頃から知り合いだったというのもあって、最近では赤い椅子に座ったトップオブトップの人にインタビューしていく「RED Chair」っていう企画もやって、これを今後もどんどん展開していこうと思ってます。そうやって、昔からネット関係の人を紹介してもらっていろんなことを聞きながら、こんなことできたら面白いなというのが自分の中で結構あって、ここ数年でいろいろ提案させてもらってるので、すごく楽しいですね。

――人とのつながりをきっかけに、いろんな分野へ進出されているんですね。

そうなんですよ。しゃべってるとその人に触発されて、「そんなことができるのか」と発見があるんですよね。そうやって、地方創生の企画をやってみたり、新しい花火の演出をやってみたり、小説も書きましたし、北京オリンピックに向けたコンテンツ開発をしたり、タカラトミーさんとアニメを一緒に作らせもらったり、コルクの佐渡島(庸平)さんと漫画を作らせてもらったり、いろんなことをさせてもらってます。

――そんなに! 今、円グラフにするとテレビのお仕事は何%くらいですか?

他がどんどん増えてきてるから60%くらいですかね。昔はテレビ、ラジオ、出版物で全部出せていたんですよ。それからパソコンや携帯が出てきても、その段階ではまだやれることが限られていましたが、スマホになった瞬間に一気に変わりましたね。そうすると、「このコンテンツに関してはNHKがいいな」とか「民放のほうがいいな」とかだったのが、「これに関してはネットがいいな」とか「イベントだけのほうが面白いんじゃないか」とか、選択肢が広がって、出しどころを全部変えられるんです。そんな中で、自分で特許を取ったりもしましたし。

――特許ですか!?

例えば、知り合いにメールしたときに、ある時間までカウントダウンして0にならないとそのメッセージが開かないというシステムを考えたんです。それを時間だけじゃなく距離にして、武道館のライブが終わって2km離れたらメッセージが開いてアーティストが「今日はありがとう」って言ってくれる音声や映像が見れたり、人数にして、10人にメッセージを送るとメッセージの中の写真が見れたりとか。カウントダウンって、ワクワクの原動力じゃないですか。そういう“何かが0になったら開く”という概念ごとの広い特許が取れたので、イベントやコンサートとかで使えたら面白いなと思ってるんです。

■松本人志から「ブレーンやれへん?」

――改めて、放送作家になられた経緯から伺っていきたいのですが、松本人志さんに誘われたのがきっかけなんですよね?

そうですね。大学を卒業して、東京に来て仕事が決まってたんですが、それがダメになっちゃったんです。そのとき、たしかアイドルが出るラジオの公開収録でダウンタウンが東京に来てて、「会おうやー」ってことになったんですよ。それで、中野坂上の駅で待ち合わせして、デニーズで2人でしゃべって。

そしたら、当時のダウンタウンは大阪ではちょこちょこ売れてても、東京では全然知られていない頃なんですけど、松本から「俺らのブレーンやれへん?」って言われたんです。そっから、今は会長になられた吉本の大崎(洋)さんに会いに行ったら「やりぃやー」って言われて「はい、分かりました」って、流されるがままに放送作家になりました。

――ダウンタウンさんとは小中学校の同級生ということですが、当時は一緒にネタを作っていたのですか?

いやいや全然! 中2のときに松本と浜田と一緒のクラスになって遊んだりはしてましたけどね。たしか、学校で歌合戦みたいなのがあるときに、替え歌を作って踊りも付けようとなって、みんなが僕の家に集まって考えてたんですよ。そのとき、松本が「こんな振りはどうだ」とか言ってるのを、僕がまとめてたような気がしますね。何か一緒にネタを考えたというのは、それくらいですよ。

僕らの学校は、イベントのときに前に出て何かやる子が多くて、僕は松本が一番面白かったんですけどね。みんなでワイワイずっとしゃべっていて、そういう笑いが好きだっていうのを覚えててくれたんじゃないですかね。

■最初の半年は辞めようと思った

――そして放送作家になられて、最初の担当番組はなんですか?

『4時ですよーだ』(MBS)でした。当時はAD業務も兼ねながら、本当に朝イチから夜中まで、先輩作家やディレクターに飯おごってもらいながら引っ張り回されて、アイデアを出しても「なんやこれ」って言われる日々でした。

最初の頃は、会議でみんながしゃべってることが全然面白くなくて。ずっと笑わないで「おもろないなぁ」って顔してたから、嫌なやつだったと思いますよ(笑)。でもそれは、僕が考えていたことが荒唐無稽だったからなんです。「飛行場のジャンボジェット使って…」とか、頭の中では自由にできるけど、テレビができるルールを超えちゃってるんですよね。「テレビが言えばなんでもできるだろう」と思っていたので、最初の半年くらいは本当に辞めようと思ったんですよ。

でも、松本に相談したら「やっといたほうがいい、今辞めたらもったいない」って言ってくれて。そしたらそのうち、いろんなディレクターが呼んでくれるようになり、「こういうアイデアをくれ」って具体的に言われるようになって、「こんなのどうですか?」って出したら「あーおもろいね」って採用されるようになったんです。そうやって深夜番組とか名古屋の番組とか、『4時ですよーだ』をやってる最中に4本くらい決まって、それはすごくうれしかったですね。

吉本興業の大崎洋会長

――すごい順調ですね!

その頃、大崎さんに「ダウンタウンがゴールデンと深夜番組を東京でやんねん。どっちをやりたい?」って言われたので、僕「深夜番組やりたいです」って言ったんですよ。そしたらゴールデンの番組は半年で終わったんですけど、その深夜番組が『(ダウンタウンの)ガキの使い(やあらへんで!!)』(日本テレビ)で、立ち上げから参加さしてもらって、ありがたいことに30年以上も続いて、本当にラッキーですよね。

――ゴールデンと、当時関東ローカルの深夜番組だった『ガキの使い』だと、ギャラも相当違ったと思うのですが、なぜ『ガキ』を選んだのですか?

大崎さんに「ダウンタウンの『タモリ倶楽部』みたいなものを作りたいねん」って言われたんですよ。それで、ずっと深夜で楽しくできるのがいいなと思って。それに、東京で通用するなんてそもそも思ってなくて。すごい面白い人がいっぱい居るだろうし、深夜で好きなこと提案させてもらえた方がいいなと思ったんですよね。

――それから他の番組も決まっていくんですね。

ちょうど同じ頃に「『夢で逢えたら』(フジテレビ)もやってくれへんか?」って言われて、東京のレギュラーが増えるんです。関西でも、(島田)紳助さんがやってた『クイズ仕事人』(ABCテレビ)とか、『EXテレビ』(読売テレビ)とかに呼んでもらって、1年ちょいでレギュラーが7本くらいになったと思います。だから、本当にツイてるんですよね。

――『夢で逢えたら』はどんな雰囲気でしたか?

演出に星野淳一郎さんがいらっしゃって、最初に会ったときは「関西のやつなんていらん」っていう感じで、名刺渡しても受け取ってくれなかったんですよ(笑)。「おまえ、面白いコント書けんのか?」ってずっと思われてたんですけど、実際、当時は書けなかったんですよね。星野さんの求めてるものが分からなくて。でも、上の作家の人が「これ面白いじゃん。ここをちょっと変えたら?」って直してくれたら、拾ってくれるようになったんです。

その後、『(ダウンタウンの)ごっつええ感じ』(フジテレビ)が始まるんですけど、そのときは星野さんだけじゃなくてダウンタウンや他の演者もコント台本を見るという体制になって、その中に僕のコントが結構入ったんですよ。これはうれしかったですね。そしたら、『ごっつ』をやってるディレクターがまた他の番組に呼んでくれたりして、一気に仕事が増えていったんです。本当にこれは運ですね。

――でも、それは高須さんの能力があったからこそじゃないですか?

いや、能力というよりね、本当に誰かが「こんな番組興味ある?」ってつないでくれるんですよ。