注目を集めるテレビ番組のディレクター、プロデューサー、放送作家、脚本家たちを、プロフェッショナルとしての尊敬の念を込めて“テレビ屋”と呼び、作り手の素顔を通して、番組の面白さを探っていく連載インタビュー「テレビ屋の声」。今回の“テレビ屋”は、放送作家の林田晋一氏だ。
数々の人気バラエティ番組を担当し、収録にも積極的に立ち会うという同氏。その理由を「三重の田舎もん根性です」と“ミーハー心”があることを強調する中で、「視聴率に向き合って、少しでも数字をとれる番組を作ることが自分の生き残れる道」という考えがあった――。
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林田晋一
1983年生まれ、三重県出身。早稲田大学卒業後、放送作家に。『アイドルの穴』(日本テレビ)でデビューし、『バカなフリして聞いてみた』『ナイナイアンサー』『たりないふたり』『1周回って知らない話』(日本テレビ)、『ペケ×ポン』(フジテレビ)などに携わる。現在は『月曜から夜ふかし』『上田と女が吠える夜』『ヒルナンデス!』『news zero』『クイズタイムリープ』(日本テレビ)、『サンドウィッチマン&芦田愛菜の博士ちゃん』『1泊家族』(テレビ朝日)、『それSnow Manにやらせて下さい』(TBS)、『なりゆき街道旅』(フジテレビ)、『クイズ!脳ベルSHOW』(BSフジ)、『冠ルーヤ』(日本海テレビ)などを担当する。
「ゴールデンで視聴率20%を」のマインド
――当連載に前回登場した元日本テレビの安島隆さんが、林田さんについて「彼が酒に酔っていうのは、昔で言うところの視聴率20%の番組をゴールデンで作りたいという気持ちで日々の仕事をやっているんだと。一方で、深夜に『たりないふたり』とかをやるマインドもあるので、テレビというものにすごく向き合ってる作家さんだと思います」とおっしゃっていました。
恐縮です。安島さんは若手の頃からずっとお世話になって、僕の作家人生にすごく影響を与えていただいた方なので、そう言っていただけるのは光栄なんですけど、全然そんなことはなくて(笑)。僕は自分が面白くないしセンスもないと思ってるので、テレビをいろいろ見ていろんな角度から向き合わないとやっていけないと思って、一生懸命必死にやってるだけなんですよ。
――安島さんとの出会いはどの番組だったのですか?
安島さんが演出されていた『バカなフリして聞いてみた』という中山秀征さんMCの深夜番組があって、アリエさんという先輩作家に呼んでいただいて入ったのが最初です。会議が始まる前に震災があったので2011年ですね。それから『たりないふたり』や『ナイナイアンサー』など、安島さんの番組では本当に鍛えていただきました。
――「視聴率20%の番組をゴールデンで作りたい」というのは、なかなか今のテレビでは難しい目標だと思います。
今のメイン指標である「個人視聴率」だと10%超えるような数字だと思うんですけど、実際そんな爆発的な数字をとってる番組って、『M-1グランプリ』だったり元日の『芸能人格付けチェック』だったり、あとはサッカーW杯やWBCの日本代表戦とか、限られた"お祭りコンテンツ"だけですよね。
その数字を目指したところで、現実的にとれるとは思っていないんですけど、そこしか自分が目指せるところがないと思うんです。すごくセンスのあるお笑い番組を考えて評価されるとか、すごくファンがつくような番組というのは自分では作れないと思っているので、他の作家さんと戦えるのはどこだろうとなったときに、視聴率に向き合って、少しでも数字をとれる番組を作ることが自分の生き残れる道だと思って、そういうスタンスでやっています。
「ノーギャラ作家」でほぼ毎週出演も
――放送作家の皆さんに今の仕事はどのような経緯でやることになったのかを聞くと本当にいろんなケースがあるのですが、林田さんはいかがでしょうか?
2025年現在のアラフォーの作家で一番ベタなパターンだと思うのですが、ダウンタウンにハマって、松本(人志)さんに魅了されて“松本信者”になり、ラジオの『放送室』(TOKYO FM)を聴いたら(放送作家の)高須(光聖)さんという存在を知ったという感じです(笑)。三重県のド田舎出身で、大学で東京に出てきて、大学3年の就活の時期になっても何もやりたいことがないし、大学生活も全然楽しくなかったし、どうしていいのか分からなかったんですけど、とりあえずお笑いが好きだからテレビ局のキー局と準キー局を全部受けて。でも全部落ちて、そのときに「そういえば放送作家ってどうやったらなれるのかな」と思って調べて、日テレ学院というセミナーにたどり着いて、大学4年の春に通い始めました。
週1回土曜日に麹町の日テレ旧社屋で授業を受けていたんですけど、そこで知り合った作家志望の人の友達が日テレでディレクターをやってる制作会社の人で、「ネットのコンテンツを作るからネタ出ししてくれないか?」って誘われたんです。
――当時、ネットのコンテンツというのは珍しいですよね。
2006年なんで、めちゃめちゃ新しかったと思います。逆に新しすぎたのか結果は出なかったんですけど、そのネタ出し会議で知り合ったのが木南広明さんという作家の先輩です。制作会社でリサーチやってた木南さんの後釜みたいな感じで誘ってもらって、制作会社所属の作家見習いのリサーチャーみたいな感じで業界に入りました。
――最初の担当番組は何ですか?
一番最初にリサーチを担当したのはたぶん、『驚きの嵐!』(日本テレビ)という嵐さんの実験番組で、「葉っぱだけで作った船で海を渡れるのか」とか「全面鏡張りの球体の中に入ったらどう見えるのか」みたいなネタが決まったものを、大学の物理学の教授に電話して「こういうのってできますかね?」って聞いたりしていました。
その会社で1年くらいリサーチをやっていたら、2009年に『アイドルの穴』(日本テレビ)というド深夜の超低予算のアイドル番組が始まって、そこにノーギャラ作家で呼んでもらったんです。
――ノーギャラ作家!?
当時所属していた制作会社の番組なので、見習いとして入れてもらってギャラは出なかったんですけど、レギュラー番組で「構成」として名前が出たのはそれが最初ですね。本当にお金がない番組だったので、経験もないのにどんどん台本を書かせてもらえて、めちゃくちゃ勉強になりました。
――その番組には自ら出演もされていたんですよね。
有吉(弘行)さんがMCで、新人のアイドルの子が10~20人くらい出てたんですけど、彼女たちに罰ゲームをやらせる人を誰にしようとなったときに、チーフ作家の桜井慎一さんに「彼でいいじゃないですか」って言われたんですよ。ある意味、自分の人生を変えていただいた一言なので、鮮明に覚えてます。そこから「アイドルの穴のお兄ちゃん」という謎のキャラで学ランを着てほぼ毎週出てました。
――当時どういう罰ゲームをやっていたのですか?
本当にいろいろやりましたけど、例えば「グレート林田」と名乗ってグレート・ムタのメイクをして、毒霧を吹きかけてました。今じゃコンプラ的にダメなヤツです(笑)。失敗は許されないので、家のお風呂場でめちゃくちゃ練習しましたね(笑)
――(笑)。そこからどのように作家さんのお仕事が広がっていったのですか?
自分の場合は「企画打ち(合わせ)」から広がることが多かったですね。先輩作家に連れて行ってもらって、先輩とディレクターさんがしゃべったのを、僕が企画書にするという感じで。それをとにかくたくさん。それなりに企画書のクオリティーは高かったと思います、僕、真面目なんで(笑)、そこで知り合ったディレクターさんとかが新たに番組やるって時に、若手でギャラも安いし、頑張ってるから呼んでやるかという感じで、いろんな番組に入れてもらえるようになりました。
――どれくらいの量の企画書を書いていたんですか?
年間300本くらいですかね。でも書いた本数より通った数だったり、通ってからレギュラーになった数が大事で、1本しか書いてなくてもそれがゴールデンでレギュラーになったらその人のほうが全然すごいと思います。