テレビ画面を注視していたかどうかが分かる視聴データを独自に取得・分析するREVISIOでは、20日に放送されたNHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』(総合 毎週日曜20:00~ ほか)の第36話「姫若子と鬼若子」の視聴分析をまとめた。
四国統一を目前に…
最も注目されたのは20時06分で、注目度70.9%。長宗我部元親(磯部寛之)が秀吉(池松壮亮)への怒りを募らせるシーンだ。
徳川家康(松下洸平)の次男・於義伊(立花利仁)が秀吉に人質として差し出された頃、阿波・白地城では四国一統を目前にした長宗我部元親のもとには、その秀吉から書状が届けられていた。「父上。羽柴は何と?」元親の嫡男・長宗我部信親が父に尋ねる。元親は無言で信親に書状を渡した。「阿波、讃岐、伊予を返上すれば、我らには土佐一国を安堵するじゃと? ふざけちゅうがか! ようもぬけぬけと!」書状を読み終えた信親は、怒りに任せてそれを投げ飛ばす。「羽柴は既に先の戦で織田方についた紀州の雑賀と根来を討伐しておりまする。次は我らかと」長宗我部家臣・谷忠澄(堀部圭亮)は主君に冷静に状況を述べた。
「ふふふっ」それまで黙っていた元親が突然小さく笑った。「かつて信長(小栗旬)に言われたことがある。お前は所詮、鳥なき里のコウモリじゃと」元親は続ける。「強がっておれるがは大きな鳥がおらん、この四国の中だけじゃと…織田の次は羽柴か…まっこと、でかい鳥ばっかりじゃのう」静かに吐き出された言葉とは裏腹に、元親の胸中には、秀吉への激しい怒りが渦巻いていた。
「ずっと腹に据えかねていたんだな」
このシーンは、秀吉の要求に強い怒りを見せた長宗我部元親に視聴者の注目が集まったと考えられる。
念願の四国一統を目前にした元親だったが、秀吉の横やりが入った。それは土佐一国を安堵する代わりに、阿波、讃岐に加え伊予も差し出せという、とうてい受け入れられないものだった。そんな横暴な要求に元親の嫡男・長宗我部信親は激高する。
一方、元親は表面上は冷静に見えていたが、心中は穏やかではなかった。以前に織田信長から受けた侮蔑の言葉と、今回の秀吉の要求に元親は強い怒りをたぎらせた。
SNSでは「念願の四国統一が目前だったのに。元親の怒りが伝わってきた」「怒りを隠さない信親と静かに怒りを強める元親の対比がいい演出だったね」「信長にあんなこと言われていたのか。ずっと腹に据えかねていたんだな」と元親にコメントが集まった。
四国統一まであと一歩と迫った元親だったが、大きな力となったのが弟である吉良親貞と香宗我部親泰だった。吉良親貞は1541(天文10)年に長宗我部国親の次男として生まれた。1560(永禄3)年の長浜の戦いで兄の元親とともに初陣を飾る。同年、元親の命によって土佐の名門吉良氏を継ぎ、吉良左京進親貞を名乗った。
吉良氏は土佐七雄の一つで、源頼朝の弟・源希義につながる家系とされる名門。吉良氏は学問や文化とも関係が深く、土佐で発展した朱子学の学統である南学の発展にも影響を与えた。その後、親貞は一条氏との戦いなどで軍功を重ねていく。特に1575(天正3)年の四万十川の戦いでは、一条兼定の反攻軍を破る大きな戦功を挙げた。しかし、翌1576(天正4)年に惜しくも36歳で病死した。
香宗我部親泰は1543(天文12)年に国親の三男として生まれた。香宗我部氏は土佐国香美郡を本拠とした有力国人だったが、戦国時代には勢力が衰えていた。そこで親泰は、1558(永禄元)年頃に香宗我部親秀の養子となり、香宗我部家の家督を継いだ。これによって長宗我部氏と香宗我部氏は強く結びつき、親泰は兄の元親を軍事・外交の両面から支える立場となった。1569(永禄12)年に安芸国虎が討死すると、親泰は安芸城主となり、安芸守を称した。
その後、阿波方面などで軍事活動を行い、長宗我部氏の四国侵攻を支えた。また外交にも携わり、織田信長や徳川家康などとの交渉にも関わっている。1592(文禄元)年の文禄の役では朝鮮出兵に参加するため九州から朝鮮へ向かう途中、長門で病死したとされている。親泰の死後、元親を補佐及び諫言できる人物がいなくなり、長宗我部氏は滅亡を早めたともいわれている。秀吉に秀長がいたように元親には親泰がいたのだ。一方、香宗我部氏は土佐七雄の中では唯一、江戸時代まで家系が存続し、親泰の子孫は佐倉藩堀田家に仕えた。

