『将棋年鑑』は将棋界の一年のできごとをまとめ、多数の棋譜を掲載した、将棋ファン必携の資料だ。本棚に並んだ古い『将棋年鑑』を手にして開くと、そこにはなにかしらの新しい発見がある。
『将棋年鑑』が初めて発行されたのは1968年(昭和43年)8月。巻頭のグラビアページには1967年度、大山康晴王将(当時45歳)に加藤一二三八段(当時28歳)が挑んだ王将戦七番勝負の写真が掲載されている。結果は大山が4勝2敗で防衛。加藤にとっては通算5回目のタイトル戦敗退となった。加藤が敗退した相手はすべて大山。二十代の頃の加藤はずっと、大山の分厚い壁に跳ね返され続けてきた。
居飛車で天下を取った大山は、キャリア後半には振り飛車党に転じた。大山はなにを指しても強かった。この頃の『将棋年鑑』には、大山が飛車を振って勝った棋譜が、ずらりと並んでいる。大山の振り飛車に対して新しい対抗策を模索し続けたのが、加藤や山田道美八段(没後九段追贈、1933-1970)らだった。
加藤より7歳年長の山田もまた、加藤の才能を年少の頃から評価してきた棋士の一人だった。山田らは加藤のことを「ピンさん」と呼んだ。当時の棋士に加藤姓が多かったため、そうした愛称になったようだ。
「ピンというのは、ピンからキリまでのピンという意味である」 (『山田道美将棋著作集』第8巻36p「ピンさんの勝負手」)
オールドファンにとっては、この「ピンさん」の呼び方はなじみ深いだろう。後年「ひふみん」という愛称が広まったのは、2010年代、加藤がテレビに出演し、将棋界の枠を超えて、多くの人に親しまれるようになってからだ。
将棋界では『将棋年鑑』が創刊された頃から様々な記録、統計が整備され始める。偶然というべきか、その創刊号で1967年度の将棋界の動きを見てみると、特筆すべき記録が多い。
1967年度の勝率1位は中原誠五段(当時20歳)だった。その成績は0.855(47勝8敗)。当時、この数字はそれほど騒がれることはなかった。
しかし中原の勝率はなかなか更新されないまま時が過ぎゆくにつれ、次第に驚愕のハイアベレージと認識されてくる。後年、羽生善治、藤井聡太は何度も年間勝率1位をマークした。しかしこの両者であっても、中原の記録は超えられないままでいる。
大山は1923年、加藤は1940年、中原は1947年に生まれた。加藤から見て、大山は17年早く、中原は7年遅く生まれている。
1967年当時は五大タイトル制だった。大山は長くそのすべてを保持し続けた。1967年度前期の棋聖戦五番勝負で山田に棋聖位を奪われ四冠に後退した。しかし絶対王者の立場は変わりなかった。
1967年度後期の棋聖戦本戦トーナメントで、大山四冠はリターンマッチを目指した。しかし準決勝で中原五段に敗れた。当時の両者の格の違いからすれば、中原の「大金星」というほかない。あとで振り返ってみると、二人の大棋士にとっては、運命的な初手合だった。大山の50期連続タイトル戦出場という、空前にしておそらくは絶後の大記録はここでピリオドを打たれた。
中原は挑戦者決定戦も勝ち、棋聖挑戦権を得る。中原の20歳3か月でのタイトル戦登場は、加藤の名人挑戦に並ぶ年少記録だ。
ちなみにこのとき、挑決で中原に敗れたのは板谷進六段(当時28歳、没後九段追贈、1940-88)だった。「東海地方にタイトルを」という板谷の悲願は、長い時を経たあと、孫弟子の藤井聡太によってかなえられることになる。
1967年度後期の棋聖戦五番勝負は中原挑戦者2連勝のあと、山田棋聖が3連勝を返して防衛を果たした。しかし中原は1968年度前期の棋聖戦でも続けて山田に挑戦。今度は3勝1敗でタイトルを獲得した。20歳10か月でのタイトル獲得は、長く更新されることのない年少記録となった。(現在では藤井、屋敷伸之、羽生、渡辺明に次いで5位)
棋界が新しい時代を迎えつつある頃、加藤は6回目のタイトル戦に臨む。大山十段に加藤八段が挑んだ1968年度の十段戦七番勝負は、加藤にとっては大きな転機となった。
第4局の1日目は大山が封じ手を行い指し掛けとなった。大山の封じ手は歩を打って受ける手が予想できる。問題はその次で、加藤側はどう指すべきか難しい。加藤は長く考えた末に、大山陣の美濃囲いの要である金の頭に歩を打つ手を発見する。それは加藤の生涯を代表する名手となった。
シリーズはフルセットの激闘の末、加藤挑戦者が4勝3敗で制した。14歳で棋士になった加藤は初タイトルの十段を獲得した1969年1月、29歳になっていた。
大山に代わって、次に将棋界の覇権を握る歳下の棋士は誰か。その本命はずっと、加藤だった。しかし加藤がようやくタイトルを取った頃、次の世代の中原が、おそるべき勢いで大山の座に迫りつつあった。
加藤は十段獲得後、逆に不振に陥る。
「十段を獲得した後、スランプというか、自分の将棋に行き詰まりを感じた時期がありました。十段のタイトルも翌年大山先生にリターンマッチを挑まれて奪い返されてしまいました。(中略)十段戦の前までは棋戦優勝したり、タイトル戦挑戦者になるなど活躍していたのですが、その時期はいわゆる鳴かず飛ばず、という状態になってしまいました。私は若い頃からキリスト教に関心があったのですが、キリスト教の洗礼を受けることでこの行き詰まりを突破できるのではないか、という考えに至り、昭和45年に洗礼を受けました」 (2015年刊『加藤一二三名局集』巻頭特別インタビュー)
1970年。中原はA級に昇級する。長い順位戦の歴史において、4期連続昇級でA級にまで駆け上がった棋士は、加藤と中原の2人だけしかいない。
1972年の名人戦七番勝負は、大山名人(王将、王位)に中原十段・棋聖が挑戦する、天下分け目のシリーズとなった。そしてフルセットにまで持ち込まれた激闘の末に、最後は中原が逆転で勝利。24歳の新名人誕生となった。将棋界の覇権は、名実ともに大山から中原へと移った。
1973年。名人戦で中原名人に挑戦したのは、加藤八段だった。居飛車党の両者はこのシリーズ、全局矢倉で戦った。結果は中原が4連勝で防衛。中原は次のように振り返っている。
「後で読んだインタビュー記事によると、当時の加藤さんは私のことを全く注目してなかったらしいんだよね。升田先生と大山先生ばかりに意識が行ってたんだよ。私のことは、ちょっと勝っているなあ、くらいの印象しかなかったみたいなんだ。(中略)私が奨励会に6級で入会した時に加藤さんはもう八段だからね。今の視点で考えるとほぼ同じ時代にしのぎを削った相手とも言えるけど、当時は全く違うね。私のことを気にしていなかったのもわかるなあ」 (中原誠「永世名人が語る加藤一二三の将棋と人物」将棋世界Special.vol4「加藤一二三」
加藤にとって歳下の中原は最初のうち、やりにくい相手だったのかもしれない。加藤は名人戦でのストレート負けも含め、1969年から1976年の間に、中原に20連敗を喫している。タイトルを争うほどの棋士の間で、これほど一方的なスコアが生じることはほとんどない。
1970年代、大山が無冠に追い込まれる一方、中原は当時存在したタイトルのすべてを制覇する勢いだった。将棋界では歳上の側が、一度追い抜かれた歳下に対して巻き返すのは、容易なことではない。しかし加藤は中原を猛烈に追い上げていく。
1978年度の棋王戦五番勝負は、中原五冠にとって、全六冠制覇を目指す戦いとなった。待ち受けるのは加藤棋王。結果は加藤棋王が3連勝のストレートで制して防衛。中原の全冠を止めた。
1970年代後半以降は、中原、加藤、米長邦雄の3人がタイトル戦の常連で「三強」とも呼ばれるようになる。この三者の対戦における戦法は、矢倉が多かった。
「矢倉を制する者は棋界を制す」
三者が天下を争い続けた1980年代には、そんな言葉も聞かれるようになった。
1982年の名人戦では、中原名人に加藤十段が挑戦した。中原は当時34歳。名人戦では9連覇を達成し、すでに十六世名人の資格を得ていた。一方の加藤は42歳。1960年に大山、1973年に中原に挑んで以来、3回目の名人挑戦となった。
2026年時点で84期を数える名人戦の中でも、この1982年度(第40期)の七番勝負は史上屈指の死闘となった。
まず第1局は223手で持将棋引分。以後は2回の千日手を含めて実質10局おこなわれたため、俗に「十番勝負」とも呼ばれる。4月に始まった名人戦がついに決着したのは真夏の7月31日のことだった。
両者3勝3敗1持将棋2千日手で迎えた最終局。加藤挑戦者先手で選ばれた戦型はもちろん矢倉だった。後手の中原名人は角銀交換の駒損をいとわず機敏に仕掛ける。中盤でリードを奪ったのは中原だった。
84手目。中原は飛車を取らせる順を選び、最短の勝ちを目指した。しかし正着は飛車を逃げる順で、中原は局後、選択を誤ったことを悔やんだ。
93手目。加藤は銀を打って中原の矢倉城に迫る。当時の観戦記では、疑問とされた。対して94手目、中原は受けに利かせるべく、金を引いた。当時の観戦記では、敗着とされている。
現代最新の将棋ソフトで検証すると、加藤の銀打ちは最善と判断されている。その時点で加藤勝勢であり、中原が金を引く前の段階で逆転していた。ただし加藤は棋勢好転を確信できていない。残り時間も切迫していた。いかに大天才加藤といえども、限られた時間の中で勝ち筋を読み切るのは難しい場面だった。
96手目。中原は歩を打って飛車の横利きを止めて受ける。控え室の検討陣も最初、中原玉の詰みが見えず、加藤負けと結論を出しかけていたという。しかしさらに検討してみると9手先、▲3一銀という妙手があって中原玉にはぴったり詰みがあるとわかった。
加藤の残り時間はわずかに9分。当時『将棋マガジン』に連載されていた河口俊彦「対局日誌」を読むと、ここで大天才加藤は、すさまじいまでの量をわずかの時間の間に読んだことが記されている。加藤は瞬時に▲3一銀までの筋が見えたらしい。しかし変化は多岐にわたる。▲3一銀のあと、中原玉が中段に逃げ出したときの変化が読みきれなかった。
「(前略)これは時間もないし負けとあきらめました。これで2分ぐらい使った。あと7分はですね、受けを考えたんです。(中略)結局、読んだ手は全部だめ。どうしても負けと分かってどうせ負けるのなら、▲5二角成がいちばんいさぎよいと思って指したのです」 (河口俊彦『対局日誌集』109-110p)
万事休すかと思われたそのあと。加藤は▲3一銀の先、玉の下から金を打つ順があり、中原玉がぴったり詰んでいることに気づいた。
このとき、加藤は叫び声をあげたという。現代と違って音声記録が残っているわけではないので、正確にはどういう言葉だったのかは、確かめられない。加藤自身の証言では「あっ、そうか」。伝説では「ウヒョー」。原田泰夫九段の観戦記では「ヒー、ヒヤー、ホォ――・・・」。翌朝の毎日新聞の記事では「ヒャー」「フーッ」。対戦相手の中原は、覚えていないそうだ。ともかくも、加藤の胸には、万感の思いが去来したことだろう。
105手目。加藤は▲3一銀と打って、中原玉に王手をかける。中原は次の手を指さずに潔く投了。将棋史に残る名シリーズの掉尾にふさわしい、美しい終局図が残された。
1960年。20歳の加藤挑戦者は第3局で▲3一銀という手を指し、大山名人を相手に勝勢に立ちながらも、勝ち切れなかった。それから22年。加藤挑戦者は中原名人を相手に▲3一銀という妙手を指し、ついに悲願の名人位に就いた。「神武以来の天才」と呼ばれた加藤はこのとき、42歳になっていた。
松本博文(将棋情報局)
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