「神武以来の天才」
それが加藤一二三のキャッチフレーズである。棋士の異称の中でも秀逸なものだろう。要するに、有史以来の天才という意味だが、そう言われても納得してしまうような圧倒的な実績を、若き日の加藤は打ち立てていた。
1954年、加藤は史上最年少14歳で四段に昇段。C級2組、C級1組、B級2組、B級1組を順位戦史上初めて、それぞれすべて1期(1年)で通過。史上最年少18歳でA級に昇級した。
また加藤はA級2期目で名人挑戦権を獲得。史上最年少20歳の若さで、名人戦七番勝負に名乗りをあげた。
「神武以来」とは、加藤がおそるべきスピードでトップクラスに台頭した頃、流行していた言葉だった。当時の人々が加藤を「神武以来の天才」と賞賛したのも無理はない。
では加藤自身はそのフレーズについて、どう思っていたのか。
「はっきり言って僕自身はそう思ったことがありません。神武というのがいまいちよくわからなくて。実体がないわけですからね」
(2013年刊、将棋世界Special.vol4「加藤一二三」巻頭インタビュー、聞き手・内田晶記者)
これはいかにも加藤らしい、ひょうひょうとした回答だ。
加藤が将棋界の新時代をになう大天才として台頭してきた頃、天下を制していたのは大山康晴(十五世名人、1923-92)だった。
大山は1952年、大名人の木村義雄(十四世名人、1905-86)から名人位を奪取。以後は兄弟子にして最強の相手だった升田幸三(実力制第四代名人、1918-91)らと激闘を重ねながら、着々とタイトルを積み重ねていった。
加藤は奨励会時代、大山名人と升田挑戦者がぶつかった、名人戦の記録係を務めたことがある。現在に伝わる伝説では、加藤少年は記録を取る間に、対局者の似顔絵を描いていたという。おそるべき大物ぶりを示すようなエピソードだ。
「先生、その話は本当ですか?」
筆者は加藤自身に、そう確かめてみたかった。しかし、やはりおそれ多くて、ついに聞けずじまいだった。
大山の覇権をゆるがす、大山より歳下、昭和生まれの新世代の棋士は誰なのか。衆目の一致するところではおそらく、昭和7年(1932-2016)生まれの二上達也と、昭和15年(1940-2026)生まれの加藤が、ポスト大山の最有力候補だった。当時のトップクラスの一人である原田泰夫(九段、1923-2004)は二上、加藤を「昭和の竜虎」と並び称している。
二上と加藤の両者同士も生涯にわたって、拮抗した好勝負を繰り広げている。二上もまた加藤の才能について驚嘆した棋士の一人であり、後年、以下のように絶賛している。
「百人を越す棋士と対局したが、天才と言い切れる棋士は加藤一二三九段ただひとりである。読みが広く深く、かつ正確であった。対局後の感想戦では、こちらの手順まで、あらゆる変化をしっかり読み切っている。加藤さんの読み筋から抜け出せないものがあった。私は後年、十八歳の羽生善治五段と対局したが、十八歳の加藤さんは羽生に勝りこそすれ、けっして劣りはしない」
(2004年刊、二上達也『棋士』136p)
加藤の才能を表す上で羽生の名が出ているのは、羽生が将棋史上屈指の大棋士であり、また二上が羽生の師匠だからでもあろう。
大山の次には二上、加藤らが天下を争う時代が来ると、当時の多くの人は思っていただろう。また二上自身もそう思っていた。二上は引退後、内藤國雄との酒の席で次のように語っていたという。
「大山さんとは年が離れているし、無理をしなくても自分の時代が来ると思った」
そう語った後でこう付け加えた。
「加藤一二三さえ注意していればね」
(内藤國雄九段寄稿『将棋魔法陣』2015年版、344p)
しかし大山は異次元の存在だった。大山は圧倒的な強さを長く維持したまま、二上、加藤らの前に立ちはだかり続けることになる。
1960年。弱冠20歳の加藤は、名人戦七番勝負の舞台に颯爽と登場する。待ち受ける大名人は、もちろん大山。当時37歳で、長い全盛期の真っ只中にいた。
加藤は生涯を通じて矢倉を得意とした。一方の大山はキャリア後半は振り飛車党として知られているが、前半は居飛車党だった。矢倉もまた十八番で、この名人戦七番勝負は、両者の得意がぶつかりあう矢倉シリーズとなった。
第1局は先手番の加藤挑戦者が会心の指し回しで勝利。受けの達人である大山名人にまったく粘りを許さない、胸のすくような、鮮やかな勝ち方だった。この一局を見れば、新名人誕生を予想した人も多かっただろう。
第2局は終盤まで勝敗不明の形勢が続いた。加藤にも十分勝機があった。しかし最後は競り合いを制して、大山が勝っている。
続く第3局は加藤の出身地である福岡県でおこなわれた。結果的にはこの第3局が、大山-加藤の名人戦のゆくえを決めた一局となったようだ。
終盤の116手目まで進んだところで、形勢は加藤挑戦者が勝勢。大山名人は窮地に追い込まれていた。しかし大山はこうした苦しい局面において、底知れぬ実力を発揮する。そして加藤は残り時間が切迫しつつあった。
仏法僧(永沢勝雄八段)が書いた「朝日新聞」の観戦記では、加藤が銀取りに歩を突く順があげられ「加藤の手勝ちは明らかだった」と結論づけている。なるほど、解説の進行通りに進めば、大山陣の矢倉は崩壊し、加藤の一手勝ちになりそうだ。
現代の強豪将棋ソフト(水匠11)は馬取りに端歩を突く手を最善と判定する。味のいい攻防手であり、そう指していればやはり加藤がよかった。
117手目。実戦で加藤は▲3一銀と打った。矢倉城に収まった2二玉に王手をかける、この戦法ではなじみ深い符号だ。時間が切迫する中で加藤が放ったのは、タダ捨ての王手だった。加藤は先手を取りながら、二枚飛車の形を作って攻め続けた。 決まれば鮮やかだ。 しかしもちろん、駒を渡せばその分、リスクは生じる。大山はきわどいところをこらえ続けた。そして進んでみれば、大山陣はすぐに寄る形ではなくなっている。大山はこうした強靭な粘り腰で、何度も何度も、大逆転勝ちを収めてきた。
加藤挑戦者の銀のタダ捨ての王手からも、最終盤の攻防は延々と続いた。そして総手数は176手。最後に勝ったのは、大山名人だった。
清水孝晏記者が書いた『将棋世界』1960年7月号の記事には「▲3一銀が冷静を欠いた一着」「加藤の▲3一銀捨てによる二枚飛車の攻め方は疑問であった」と記されている。また木村十四世名人は「朝日新聞」紙上に掲載された講評で「敗着は3一銀だった」と断じている。
筆者はずっと、1960年の名人戦で加藤が指した▲3一銀は、痛恨の一手だと思っていた。しかし、ソフトで再検証してみた結果、そうではなかった。▲3一銀は鋭い攻め筋のひとつであり、点数はほとんど変わることなく加藤勝勢。つまり▲3一銀は流れを変えたという意味で「敗着」だった可能性はあるが、少なくとも盤上の真理の上では「悪手」ではなかったのだ。
理屈としてはそこから先、加藤挑戦者が少しずつ最善を逃して逆転した、ということになる。筆者の印象では、ただただ、大山名人が強すぎたという感じがする。
「加藤好局を逸しフアン泣く」
以上が、当時の『将棋世界』誌の記事タイトルだ。加藤の地元・福岡県の人たちにとっては、なんとも残念な結果に終わった。
続く第4局は大山が完勝。
第5局は千日手指し直しの末に、やはり大山が完勝を収めた。総手数は169手。優位に立った大山は勝ちを急がず、冷酷とも、無慈悲とも思われる指し回しを一貫させた。加藤は投げずに指し続ける。そして最終盤では、名人戦史上に残るほどの大差がついた。
大山は『将棋世界』1960年8月号に掲載された自戦記で、次のように記している。
「(152手目、加藤八段の指した)△5三飛引以下最終図に至る手順は、ここまで指したことがすでに高段棋戦としては異例に属するが、加藤八段のやむにやまれぬ闘志と若い血がここまで指させたのであろう。(中略)これで私は七度目の名人位を守ることができたが、加藤八段は一局指すごとに強くなつてくる感じで、私にとつて一番指しにくい相手になりそう。今後も加藤八段や二上八段ら若い人たちが挑戦してくることだろうが、盤に向かつてしまえば、私はだれであろうと、一局一局せい一ぱい指すつもりである」
(大山康晴名人『将棋世界』1960年8月号22p)
大山が圧倒した第5局の印象が強いこともあってか、このシリーズは「大山が第1局は敗れたものの、以後は盤石の防衛を成し遂げた」という印象を持つ人も多いかもしれない。
しかし加藤挑戦者は第2局、第3局は五分以上にわたりあい、十分に勝機もあった。後年、加藤は次のように述べている。
「最近になって当時の棋譜を調べてみたところ、私には勝つチャンスがあったにもかかわらず、それを逃していた対局が2局ありました。いまならそれを見逃すことはないでしょう」
(加藤一二三『昭和100年の100人』文藝春秋)
37歳の大山名人は強かった。しかし20歳の加藤挑戦者が名人に就く可能性も、少なからずあった。歴史に「もし」はない。しかし、もし20歳の加藤新名人が誕生していたら――。そんな「世界線」を想像してみた加藤ファンは多いだろう。
加藤は持ち時間を使い切り、1手を60秒未満で指さなければならない「一分将棋」で途方もない強さを発揮した。この点について、加藤はどう思っていたのか。
「『一分将棋の神様』とも呼ばれていますが、そもそも神様という言葉を軽々しく使うものではないと私は思っています。秒読みでも正確に指せるという高い評価をいただき嬉しく思いますが、自分が神だなんておこがましい。大山先生(康晴十五世名人)は私のことを「早指しの大家」と書いてくださいました。さすが大山先生で、この表現なら納得がいきます。そうそう、私のことを「加藤さんは大天才である」とも書いてくださいました」
(将棋世界Special.vol4「加藤一二三」巻頭インタビュー)
加藤は敬虔なクリスチャンでもあり、自身が「一分将棋の神様」と呼ばれることについては、あまりこころよく思っていなかった。そして大山による「早指しの大家」という言い方を好んでいた。このあたりもまた、いかにも加藤らしい。加藤は生涯を通じて、大山を尊敬し続けた。
「加藤一二三のライバルは誰か?」
もしオールドファンがこの問いを考えるとしたら、おそらくは「昭和の竜虎」と並び称された二上達也九段、大舞台で多く戦った中原誠(16世名人、1947-)、米長邦雄(永世棋聖、1943-2012)らの名前が挙がるのではないか。
「加藤九段自身が思う所の過去、現在のライバルは?」
その問いに、加藤自身はこう答えている。
「大山十五世名人。普通ライバルは微妙な間柄だが大山先生は私を極めて高く評価して下さっていた事に感謝」
(将棋世界Special.vol4「加藤一二三」)
大山と加藤の名人戦での対戦は、1960年の七番勝負が最初で最後となった。一方で、加藤が生涯でもっとも多く対戦した相手は、大山だった。トータルの対戦成績は大山79勝、加藤46勝という数字が残されている。加藤が初めてタイトルを獲得した相手もまた、大山だった。
松本博文(将棋情報局)
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