3番目に注目されたシーンは20時17分で、注目度78.0%。東洲斎写楽の誕生秘話のシーンだ。

耕書堂には蔦重の抱える絵師・戯作者が顔をそろえていた。曽我祭に合わせて平賀源内(安田顕)が描いたと思わせる絵を出すという計画が動き出したのだ。絵師たちはみな乗り気だ。蔦重は戯作者たちに向きなおると「画号だな! 源内先生じゃないかと思わせる画号がいるな!」と大田南畝(桐谷健太)が声を張り上げた。蔦重が同意し、さらに騒ぎが派手になる仕掛けを考えてほしいと依頼する。

そこへ滝沢瑣吉(津田健次郎)がやってきた。絵師や戯作者が集まるこの場に興味津々のようだ。しかし、みの吉(中川翼)がうまく瑣吉を言いくるめて部屋の外へと連れ出した。蔦重は口の軽そうな瑣吉を誘ってはいなかったようだ。「しゃらくさいってのはどうかねぇ」ぽつりと朋誠堂喜三二と口を開いた。源内がつぶやきそうな「しゃらくせえ」をもじったものだ。

福内鬼外、鳩渓、風来山人、天竺浪人、悟道軒、貧家銭内。これまで源内が用いた号を面々が次々に挙げていく。「いいんじゃねぇですか? しゃらくさい。面憎い、出しゃばり、小癪、洒落者。源内先生にぴったりでさぁ」と、蔦重が満足げにうなずき南畝も同意する。しばし逡巡の後、蔦重が字をあてる。「この世の楽を写す、またはありのままを写すことが楽しい」そう言うと「写楽!」と、みなの声がそろった。ここに幻の絵師・写楽が誕生した。

写楽誕生に大いに沸き立つ

ここは、注目されていた写楽誕生のエピソードに、視聴者の注目が集まったと考えられる。

当初から写楽を誰が演じるのかというのは、しばしばSNSなどで話題となっていた。第4話「『雛形若菜』の甘い罠」で蔦重のピンチを見事な模写のスキルで救った幼いころの喜多川歌麿・唐丸(渡邉斗翔)が写楽の候補に挙がったこともあった。満を持して明らかになったその正体は、蔦重が今まで培った人脈を結集した、合作による架空の絵師だ。

SNSでは「写楽の名付けとしてこの上ない見事な解釈を見た気がする」「そう来たかの蔦重を久々に見た気がする。やっぱり蔦重はアイデアマンしてる時が一番輝いてるね」「蔦重と組んだ絵師と戯作者が再び集まって写楽が誕生するのが熱いな」と大いに沸き立った。

作中で写楽の語源となった「しゃらくさい」は生意気だ、ずうずうしい、分不相応に気取っているといった意味をもつ形容詞。由来は諸説あるが、洒落から派生したといわれ、しゃれて気取っている、つまり生意気で鼻につくという意味に転じたとされている。町人文化・口語表現の中でよく登場した言葉で江戸っ子気質を表す語彙の1つとなっている。

東洲斎写楽は、1794(寛政6)年5月から翌1795(寛政7)年初頭までの約10か月だけ活動した謎の浮世絵師。主に役者大首絵と呼ばれる歌舞伎役者の半身図を描き、鋭い心理描写と大胆なデフォルメで知られている。

わずか10か月ほどで約145点を残して姿を消したことから、江戸美術最大の「謎」とされている。1794(寛政6)年5月を1期として約30作品、7月を2期として約30作品、11月を3期として約60作品、明けて1795(寛政7)年正月に14作品が刊行された。

写楽の正体としては喜多川歌麿や葛飾北斎、山東京伝、十返舎一九など多くの絵師、さらには版元の蔦屋重三郎が挙げられたが、阿波徳島藩の能役者である斎藤十郎兵衛が史実では有力とされている。その作品は当時の江戸では賛否が分かれ、「似すぎて嫌がられた」「毒が強い」とも評された。19世紀末にドイツの美術研究家・ユリウス・クルトが著書『SHARAKU』で紹介したことによりヨーロッパでその名が広く知られるようになった。