3番目に注目されたシーンは20時32分で、注目度68.3%。死を呼ぶ手袋をめぐる攻防が繰り広げられるシーンだ。

田沼意次から手袋を入手するよう命を受けた長谷川平蔵宣以(中村隼人)は、意次の屋敷を訪れた。平蔵の報告は、手袋を含めて鷹狩の日に徳川家基が身に着けていたものは知保の方(高梨臨)が手元に置いていたが数日前に松平武元の手に渡ったという、意次にとっては最悪の内容だった。「終わったか…」意次はがっくりと膝をつき、「あの手袋は俺が用意したものだ」と、その場にいた、田沼意知(宮沢氷魚)と三浦庄司(原田泰造)、そして平蔵に告白する。

庄司は、種姫、高岳を経て家基へ献上する間に毒を仕込む隙はいくらでもあると主張するが、意知は武元がそうは考えず、意次を追い落とす手札とするのではと懸念した。絶望感が漂う中、平蔵は西の丸を調べつくし、毒を盛った真犯人を探し出すと申し出るが、その直後、従者が武元の使者の来訪を告げる。意次の表情は凍りついた。

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「まさか手袋で田沼意次が絶体絶命になるなんて…」

ここは、追いつめられていく意次の様子に視聴者の注目が集まったと考えられる。

平賀源内と平秩東作(木村了)の調査により、徳川家基の死因は手袋に仕込まれた毒である可能性が濃厚となった。手袋を手配した意次は是が非でも手袋を押さえようと苦心するが、政敵である松平武元の手に渡る。意次の観念した表情が印象的だった。SNSでは、「まさか手袋で田沼意次が絶体絶命になるなんて…」「蔦重サイドと意次サイドの温度差がものすごいな」「ちょっとした好意だったのにそれが原因でここまで追いつめられるとはね」と、緊迫した政治パートが大きな話題となった。

覚悟を決めて武元のもとを訪れた意次だったが、武元の対応は意外なものだった。公私混同せず、真犯人を突き止めようと意次と協力体制を取ろうとした武元だが、なんと武元までもが不自然に急死してしまう。家基といい武元といいこのタイミングでの死は、誰が考えても意次による犯行だと思ってしまうだろう。裏で糸を引いているのは御三卿のあのお方なのだろうか。

松平武元は常陸・府中藩の第三代藩主・松平頼明の4男として1713(正徳3)年に生まれた。幼名は武元(たけもと:漢字はそのまま)。1728(享保13)年に上野国館林藩第二代藩主・松平武雅の養嗣子となり家督を相続する。その直後に陸奥・棚倉に転封された。1746(延享3)年に西の丸老中に就任すると、上野・館林に移る。1747(延享4)年に老中、1764(明和元)年に老中首座に就任。この頃に呼び方を「たけもと」から「たけちか」へ改める。徳川吉宗、家重、家治と三代にわたって将軍に仕え、特に家治からは「西丸下の爺」と呼ばれ厚い信頼を寄せられた。老中首座は1779(安永8)年の死去までの15年もの間務めた。西の丸老中は幕政には関与せず、主に西の丸に居住する大御所や将軍嗣子の家政を総括する役割だった。

今回のキーアイテムとなった鷹狩用の手袋だが、正式には「エガケ」と呼ばれる。鷹の持つ鋭い爪から手を守るため、強度と柔軟性を兼ね備えた鹿革が用いられる。使い込むほどに手になじみ、鷹の足の感触が伝わりやすくなり、鷹匠は鷹の状態を詳細に把握できるようになるのだ。