---------------------------------------------------------------------------
初恋、結婚、就職、出産、閉経、死別……。
人生のなかで重要な「節目」ほど、意外とさらりとやってきます。
そこに芽生える、悩み、葛藤、自信、その他の感情について
気鋭の文筆家、岡田育さんがみずからの体験をもとに綴ります。
「女の節目」は、みな同じ。「女の人生」は、人それぞれ。
誕生から死に至るまでの暮らしの中での「わたくしごと」、
女性にとっての「節目」を、時系列で追う連載です。
---------------------------------------------------------------------------

機械の体をタダでくれ

子供の頃、失うのが一番怖かったのは「目」、視力だった。目が見えないと本や漫画が読めないし、絵や字も書けない。私がこの世で楽しいと感じることの多くは、目に見える美しいかたちを持っている。それを奪われれば生きがいはほとんどすべてなくなる、と思っていた。夢中で読んでいたSF漫画には、視力を失った代わりに他の感覚が鋭くなったり、別の超能力を発揮したりする異能力者がよく描かれていた。カッコイイと思うより、怖かった。

一方で、全盲の人にとって世界はどんなふうに感じられるのか、私とはまるで違う「楽しさ」がそこにあるのだろうかと興味を持って、目を瞑ってあちこちを壁伝いに歩いてみたりもした。ヘレン・ケラーの自伝を読んだ子供はみんな一度は試すのではなかろうか。「耳」の聴覚を失うのも同じくらい怖かったけれど、たとえば「口」で喋ることができないのは、まぁ筆談でしのげそうだ。手や足だって、一本くらいならあってもなくてもいいかな。最近は義手や車椅子がどんどん進化していると聞くし、隻腕のフック船長や人工音声で話すホーキング博士は、怖いというよりカッコイイ。

それが幼い頃に考えていたことだった。五体満足な健康優良児の想像力は「0」か「1」かしか働かない。視力を失うというのは目玉を抉り取られることであり、脚を失うというのは付け根からスパッと跡形もなく切断されること。「間」はなかった。

私が一番きれいだったとき

だから、おばさんたちに取り囲まれて「ほら見て、子供はお肌がツヤツヤで羨ましいわー、水滴なんてぷるっぷるに弾くんでしょうね」などと言われても、まるでピンと来なかった。「入浴時にかかとを軽石で削る」美容行為が何なのかさえ理解できなかった。石で? 皮膚を? 血が出るじゃん?

わかっている子は、わかっていた。「私たちは、若い今がいちばんきれいなんだから」と言う女友達がいた。高校にもいて、大学にもいて、何なら小学校高学年のときにだっていた、たしかバレリーナを目指している子だったと思う。「今からしっかり保湿しないと後がヤバい」と肘や脛に何かを塗りたくっている。「0」か「1」かしか想像の及ばずにいた幼い私は、美人は美人でブスはブス、ババアになっても変わらないじゃん? と思っていた。

しかし肉体は、加齢とともに徐々に衰えていく。身体機能も、少しずつゆっくりと低下していく。「きれい」は容姿の美醜ではなく、「満開」や「最高潮」という意味だったのだ。下降曲線に気づいたら既に遅し、結局どこが自分のピークだったのかさえわからないまま、時は経過していく。悪の組織との凄惨なバトルで両目を抉られずとも、ネバーランドのワニに片手を喰らわれずとも、あるいはもっと一般的な病気や事故に見舞われずとも、我々の心身は自然と盛りの勢いを失い、それらは二度と戻らない。

陰毛に白いものが一本混じっていることに初めて気づいたのは、34歳11カ月のときだった。あまりの衝撃に思わず日記にしたためてしまった。以後、抜いても抜いても、同じ毛穴からは似たような白髪しか生えてこない。「もし明日起きて、突然目が見えなくなっていたら、きっと絶望してベルサイユ宮殿の高台から身投げして死んじゃう……!」と少女漫画的な妄想に酔っていたのはガキの頃の話。深刻な眼病にかからなくたってそのうち自然と目なんか霞むし、シワもシミも消えず、傷の治りは遅いくせに削っても削ってもかかとはガサガサ、徹夜もきかなければ、胃袋は夜食のラーメンを消化できない。でもまぁ、老いただけで、死にはしない。まだ「0」というわけではないけどもはや「1」とも呼べない、黒みの中に混じった白髪一本を気にしながら過ごす時間が、とても、とても、長いのである。

アホはよくても、バカは駄目

元教師だった祖母を老人介護施設に見舞ったときのこと。最近はちょっとしたことでも臥せってしまうと聞いた割に、起き上がって歩き回り冗談を飛ばしながらおしゃべりする彼女は、変わらず元気そうに見えた。我が家の女性陣がみな聞かれてもいない自虐ネタに辛辣なセルフツッコミを入れながら周囲を笑わせるのはこの人から譲り受けた関西人気質だよなぁ、と炸裂する後期高齢老人ギャグを楽しんでいたのだが、一つだけうまく笑えなかったことがある。

「こんなとこで寝てばかりいたら、バカになってまうわ」と彼女はつぶやいた。かつては女学校出の才媛と誉れ高く地元のインテリ男子たちの憧れの的だった彼女は今、「長生き」への喜びよりも「ボケ」への恐怖がまさっている。もし寝たきりが続いて認知症の症状があらわれたら、築き上げた知性が失われたらそれは「私が私でなくなる」ことだと、ひどく怯えていた。その不安こそがまだまだ頭脳明晰な証拠で「お達者か!」とツッコミたいところだが、働き者だった彼女がこれから何年この部屋で「ボケてまう」恐怖と戦うことになるのかと思うと、正直、手放しで長寿を言祝ぐ気にもなれない。

若年性アルツハイマーを題材にした小説と映画『アリスのままで(STILL ALICE)』を思い出す。主人公は名門大で教鞭を執る言語学者で働き盛りの50歳、素晴らしい家族にも恵まれた幸福な女性だ。投薬治療を進めながら彼女は、未来の自分にビデオメッセージを残す。時が来たら、寝室に隠しておいた瓶の中身を、誰にも言わず全部飲み干すように、と。

やがて彼女はそれを実行に移そうとするのだが、もはや噛んで含めるように易しく指示される手順にさえうまく従うことができない。映画版を初めて観たとき、張り巡らされた伏線をふと忘れかけた頃に「かつてのアリス」の姿を映像で再び目にして、胸が詰まった。物語はすでに彼女自身の想像した未来の、その先はるか遠くまで運ばれてしまっている。自分の手で未来を制御しようとする過去の映像は、今現在のアリスとはまるで別人のように見えた。

その先は、おまかせモードで

自分で自分がわからなくなったら、生きているのも恥ずかしい。いっそ死んでしまいたい。知的で意識の高い人ほどそう考えるものだろう。私だって願わくはピンピンコロリで死にたい。しかしその程度では「私が私でなくなる」未来への想像力が、まだまだ足りないのだ。キズひとつない完璧な人生を最期まで思い通りに制御したいと思っているうちは、「失明したらベルサイユ宮殿から身を投げる!」とのたまう「0」「1」の子供と変わらない。

私たちの人生は、私たちのものでなくなっても続いていく。そして、そうなっても私たちはまだ、自分自身である。綺麗事を言えば、「これが私」と信じていたものがみるみる失われていく代わりに、よみがえるもの、新たに手にするものもあるだろう。目玉も脚も、黒髪も肌ツヤも、あるいは頭脳や記憶も、所詮は肉体、「人生」とイコールではないのだから。また悪し様に言えば、そもそも肉体や精神や人生が自分一人の所有物という発想から間違っていて、そうした執着からゆっくりと解放されていくために、これほど長い「死ぬまでの時間」が与えられているのだとも考えられる。

夫に先立たれ、子供や身寄りもいなかったとして、老いた私の車椅子を誰が押すことになるのかはわからない。お金で雇った腕利きの介護士なのかもしれないし、未来の車椅子は人工知能搭載で自走するのかもしれない。それとも夢中で読んだSF漫画のように、衰えた肉体を捨てた私は意識だけの存在となり、車椅子の代わりに小さなカプセルに納められて、宇宙の狭間を永遠に漂い続ける羽目になるのかもしれない。

「えー、やだやだそんなの、ちょうどいいところで殺してくれよ!」と思ったところで、この「ちょうどいい」は、風呂の湯加減のようには好きに調節できない。「私は一人で生きて死ぬのだ、それが望みだ」と言うことができるのは若く健康なうち、自分が自分でいられる時間だけであって、その先に何が待っているのかは未知のまま、長生きをすればきっといつか、私ではない誰かが制御する車椅子に運ばれる時が訪れる。行く先がわからなくても、「別人」に見えても、それもまた「私の人生」なのだ。

<著者プロフィール>
岡田育
1980年東京生まれ。編集者、文筆家。老舗出版社で婦人雑誌や文芸書の編集に携わり、退社後はWEB媒体を中心にエッセイの執筆を始める。著作に『ハジの多い人生』『嫁へ行くつもりじゃなかった』、連載に「天国飯と地獄耳」ほか。紙媒体とインターネットをこよなく愛する文化系WEB女子。CX系の情報番組『とくダネ!』コメンテーターも務める。

イラスト: 安海