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初恋、結婚、就職、出産、閉経、死別……。
人生のなかで重要な「節目」ほど、意外とさらりとやってきます。
そこに芽生える、悩み、葛藤、自信、その他の感情について
気鋭の文筆家、岡田育さんがみずからの体験をもとに綴ります。
「女の節目」は、みな同じ。「女の人生」は、人それぞれ。
誕生から死に至るまでの暮らしの中での「わたくしごと」、
女性にとっての「節目」を、時系列で追う連載です。
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人生は寂しい

30歳を過ぎた辺りからだろうか、「子供がいないと、将来、老後が寂しくなるわよ」と言われるようになった。そのためには早く子供を持たないと、その前段階として早く結婚しないと、というせっつき方である。

「たとえ子供がいたって、寂しい老後を迎えるかもしれない」……心の中でだけ、そう答えてみる。私がこの切り返しを知ったのは、近藤ようこの漫画『ルームメイツ』だ。還暦過ぎの女性三人が同居を始める話、先日たまたまウェブ上で再読し、どんな場面でどんなふうに描かれた台詞か、鮮やかに思い出した。つまり再読するまでとんと忘れていた。年頃になれば自然と結婚して自然と子供を産み、老いればその子らに頼って生きていくおばあちゃんになるのだろう、と無邪気に信じていた10代の頃、初めてこのくだりを読んだときには、何とも思わなかったのだ。

私の「老後」はどう転んでも「寂しい」ものである。そう覚悟していたほうが、よっぽど生きやすい、と今は思う。どれだけ大勢に囲まれた人生を送ろうとも、最後に「おひとりさま」になる可能性は、いつでも必ず、幾許かは残されている。男性より平均寿命が長い女性はなおさらだ。老後に保険をかけるようにして配偶者と寄り添い、将来の不安を拭うために我が子を育てる営みを、本当にそんな目的のため「だけ」に遂行する人がいるのなら、ずいぶん楽観的に感じられる。家族だって他者であることに変わりなく、いずれは離れ離れになるときが訪れる。明るい家族計画を立てるのは個人の自由だが、すべてがその思い通りになるとは限らない。

アップデートと強制終了

大学在学中に若くして事故で亡くなった友人がいる。今年の誕生日、私はすでに彼の二倍の時間を生きてしまったことに気がついた。十八年経っても、霊安室や火葬場で聞いたご両親の泣き叫ぶ声が耳を離れない。まだ二十歳前の私は、「あの子が生きるはずだった分まで、友人の我々がしっかり生きていこう」と決意した。私の生と彼の死は、そのくらい密接に結びついていると信じていた。

けれども、本当に本当の正直な胸の内を明かせば、私は普段の生活の中で、彼のことを思い出す時間より、思い出さない時間のほうがずっと長い。彼の命を奪ったのはほんの一瞬の出来事だった。その一瞬の分岐点はみるみる過去へ遠のき、私がどんなに「しっかり生き」ても、私と彼との関係性には今後いっさいのアップデートが生じない。何も無いところから必死に掘り起こされる思い出が実際の記憶を美しく捻じ曲げてしまうのが怖くて、考えるのを止めることさえある。

大学の新入生同士として知り合い、きっと生涯の友になると確信していた彼と私の人生は、実質ほんの数ヶ月しか交錯しなかった。人生に占めるその数ヶ月の割合は、どんどん薄まっていく。ただ同じ時間を近くで生きているだけの、私にとってさほど価値のないどうでもいい人間たちとの関係性は、毎日さんざん顔を突き合わせてみるみる強制アップデートされていくというのに、この不均衡はいったいどうしたことだろう。

そうして漫然と続く生活のなか、我々はみな巻き戻せない時間を生きているのだと実感するタイミングはそうそうなく、あればまた、懐かしい人々の親族から届く突然の訃報だったりする。生きているうちにもっと濃密な関係性を築いておくべきだった、と何度でも後悔する。素敵な人、魅力的な人、愛する人、大切な生きている人間を前にすると、つねに自分に言い聞かせる。この人が私より先に、今日か明日、いきなり死んでしまう可能性だって、ある。そう思って生きていかなければならない。

大人になるにつれ私たちは、身近な死を経験し、それをみずからの生に取り込み、けっして忘れず、けれど回想の頻度を少しずつ下げて、どんどん遠くまで歩いていくようになる。しかし私よりずっと年配の人であっても、身近な者の死に「こんなことはまるで想像していなかった」と嘆く姿をよく見かける。あいつとは永遠にずっと一緒にいられるとばかり思っていた、と。「お言葉ですが私は、ひょっとしたらそんなことも起こるかもしれないと思っていましたよ」と、心の中でだけ答えてみる。もちろん責めるつもりはない。まだ生きている者たちが、他者の死からあまりに激しいショックを受ける、その無防備すぎる姿を目にすると、なんともいたたまれない気分になるだけだ。もし私があんなに無防備にその深い穴へ落ちたら、彼らと同様に身がもたないだろうから、日々、険しく身構えているだけだ。

人生とは、そもそも、寂しいものである。その寂しさゆえに人は他者とのつながりを求める。そのときに、私にも彼らにも等しくたくさんの時間が残されているはずだ、などと過信しないことだ。私たちは一人ずつ「この世」という舞台から退場していく。誰がいつどんなふうに「この世」を去るか、筋書きを決めるのは我々ではない。だからこそ今この瞬間にこれほどまで他者を愛しく思うのだということを、忘れてはならない。

賞味期限は確認しよう

さてそれで、いつ死ぬかもわからないそんな赤の他人と、「死が二人を分かつまで」などというなんとも曖昧な期間契約を結ぶのが、夫婦という関係性である。結婚を決めてすぐ、夫は自分の加入する生命保険やら銀行の残高証明書やら何かの計算メモやらをダイニングテーブルにずらりと開示して、「もし明日、自分が死んだら」という話を始めた。さすが私の夫だな、やはり彼もまた無防備ではいられず、日々、身構えているのだ、と思った。彼は私の予想をはるかに上回る重度の寂しがりやで、結論はつねに「とにかく絶対に自分より先に死なないでほしい」というところへ行き着き、私は生まれて初めて「そうか、もう好きに死ねないのか、私の人生は私一人のものではなくなってしまったのだ」と実感した。

かくして私は現在、「結婚が継続する限りは夫より長生きする」という口約束に縛られている。なるべく死なないように努力する姿勢を、契約相手に示し続ける義務がある。自棄酒を控えたり、腐りかけの食品に手をつけなくなったり、無茶な信号無視をしなくなったり、危険な状況へ首を突っ込むのをやめたり……そんな程度の些細な危機回避だけれども、裏を返せば、今までどれだけ自分が「ここで死んでもいいや」という態度で生きてきたかを思い知る羽目になった。

パートナーが一緒にいられる時間は長ければ長いほうがよいけれど、その時間は、自動的に伸びてくれるわけではない。むしろ、ほったらかしにしておけば徐々に自然と縮まっていってしまうことのほうが多いだろう。どこまで長生きしても、いつ死に別れても、互いの関係性にアップデートがかかり続ける、それが家族というもので、「そんなふうに作用する関係性は、少ないよりは多いほうがいいと思うわよ」という勧めであれば、冒頭の「寂しい老後」を極度に恐れる人々にも、まぁ頷ける部分はある。これもまた、筋書き通りに生きられないことを知っている者の言葉だ。

同じ場所へは戻れない

たまたま生まれ落ちた家族とは別に、みずから選び取って築いた家族がある。その家族をすべて喪い、また一人で生きることになる、その節目はいつ訪れるのだろうか。そのとき私は、どれだけ落ち込んで、どれだけスッキリするのだろうか? こんなことは二度とごめんだ、と再婚せずに生きるのか、それともまた新しく別のパートナーを得るのだろうか。

夫が私を置いて外へ出かけるとき、私が夫を置いて外へ出かけるとき、玄関先で見送り見送られながら「もしかすると、これが最後の別れになるかもしれない」という不安が、毎日のように頭を過ぎる。実際にその「節目」を迎えたとき、私は穏やかに「いつかこんなことが起こると、わかっていましたよ」と言えるのだろうか。いくら身構えてみても、本当にその日が訪れるまでは、何もわからない。

そう遠くない将来、夫に先立たれたら、私はふたたび「私一人だけの人生」を取り戻すことになる。しかしこれはいわゆる「未亡人」というやつで、単なる「独身者」とはずいぶん趣が違うようにも思われる。死んだ他者の人生をも背負って、残された時間を生きる……若くして死んだ友人の葬儀で青臭く決意し、しかし口で言うほど簡単には自覚が持てずにいた、あの感覚を、そのときようやく抱くに至るのかもしれない。

<著者プロフィール>
岡田育
1980年東京生まれ。編集者、文筆家。老舗出版社で婦人雑誌や文芸書の編集に携わり、退社後はWEB媒体を中心にエッセイの執筆を始める。著作に『ハジの多い人生』『嫁へ行くつもりじゃなかった』、連載に「天国飯と地獄耳」ほか。紙媒体とインターネットをこよなく愛する文化系WEB女子。CX系の情報番組『とくダネ!』コメンテーターも務める。

イラスト: 安海