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初恋、初体験、結婚、就職、出産、閉経、死別……。
人生のなかで重要な「節目」ほど、意外とさらりとやってきます。
そこに芽生える、悩み、葛藤、自信、その他の感情について
気鋭の文筆家、岡田育さんがみずからの体験をもとに綴ります。
「女の節目」は、みな同じ。「女の人生」は、人それぞれ。
誕生から死に至るまでの暮らしの中での「わたくしごと」、
女性にとっての「節目」を、時系列で追う連載です。
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次女のいない長女はない

「あなたが思い出せる、最も古い記憶は何ですか?」という質問への答えはさまざまだ。小学校高学年以前のことは思い出せない、という豪快な大人もいれば、羊水の中で泳いだのを憶えている、と豪語する子供もいる。私の場合、はっきり思い出せるのは「生まれたばかりの妹を見に行った」ときのこと。1歳11ヵ月だった。

ついこの間、おまえが生まれたのと同じ病院だよ、と聞かされていた。クリーム色した光の中で、母子同室のベビーベッドを覗き込む。布が敷き詰められた高い柵の中がよく見えず、背伸びをしようとしてバランスを崩し、誰か大人に後ろから支えてもらった。あるいは抱き上げられたかもしれない。大人はみんな声を出して笑っていた。何が可笑しいのかわからなかった。その日から私は、一緒に暮らす両親にも、通りすがりの赤の他人にも、みんなから「おねえちゃん」と呼ばれるようになった。幼い子供が世の中のことを把握するかしないかの段階を指す、「物心つく」という言葉がある。私にとって「物心つく」とは、「姉になる」ことと同義だった。

その日まで、世界のすべては私のために存在していた。この世には「自分」と「自分以外」しかなくて、自分でなければ動物も植物も、海も山も太陽も、肉親も宇宙人も、有機物も無機物も、夢も現実も等しく同じ。だがその日から、世界が少しだけ違って見えた。少なくとも、動植物や太陽と「私以外の、他の人間」とは、はっきり区別できる。人生という名の劇場の、舞台装置か何かだと認識していたものの一部が、同じ舞台に立つ別の登場人物たちであることを知る。そして、その演者は自分の思う通りには動かせないものだと、こんな言葉によって何度も思い知ることになる。

「おねえちゃんなんだから、我慢しなさい」

クリーム色した光の中で、柵を掴んで立ったあの日は、紛れもなく私の人生における「節目」だ。ともすれば自分自身の「誕生」よりずっと大きな意味を持つ。自分が生まれてくる場所は選べない。後から生まれてくる弟妹も選べない。両親の希望とコウノトリの御機嫌が重なって、私の人生において「一人っ子」として育つ選択肢は採択されなかった。「次女」が生まれて、私は「長女」になった。

憧れの小皇帝たち

「幼い頃、自分以外の人間は、みんな機械か何かだと思っていた」と話す人たちがいる。人生劇場に集う他の演者たちを、かなり大きくなるまで「舞台装置の一部」としか認識していなかった人々。大半は一人っ子か、またはうんと年の離れたきょうだいしかいない家族構成に育っている。

「自分以外の人間は、みんな自分のために存在する、使役ロボットのようなものだと思っていた。父役のロボットにも、母役のロボットにも、自分と同じ『心』なんかないと思っていた。だから、信号を見て道を渡れとか、友達を傷つけて泣かせるなとか、大人から怒られることの意味がよくわかっていなかった。世界のほうが俺に合わせるものだと思っていたから」

私は、そんな彼らの思い出話を聞くのが好きだ。妹の誕生とともに、私の手元から取り上げられてしまった世界観を、もうしばらくは生きていた人々。この世界は俺の、俺だけのもので、俺を中心に回っているのだと、数年単位で信じていられた人々。すべての一人っ子がそんなふうに育つわけではなかろうが、彼らの話を聞くとゾクゾクする。世界のすべては「俺」を生かすために用意された、「俺」のために役目を果たす舞台装置である……そう思って生きていた幼い彼らの、独裁者のような万能感と多幸感、うぬぼれ、そして孤独を、追体験してみるのが好きだ。

もし私にも、そんなふうに過ごす子供時代があったなら、もっと自信家でいられただろうに、と思う。何か新しい物事に挑戦するとき「私ならば、うまくいく」という精神力で取り組めるはずだ。あるいは、もっとストレートに要求をぶつける性格になっていたかもしれない。他人の出方を窺ってから意見を述べる、今の私とは違う人間になっていた。あるいは今の私のように、理由なき反抗に異様な快感をおぼえる大人にもならなかっただろう。俺自身がルールであると思えていたなら、既存の社会規範を破壊することにアイデンティティを見出したりはしない。

あの日、あのとき、妹が生まれなかったら、私はきっと、まったく別の人間になっていた。もっと傍若無人な、別の人生が用意されていたはずなのだ。そんな夢想は、しばし私をうっとりさせる。

現実の私は、二歳の頃から「他者がいる」人生を歩んできた。病室で声を上げて笑っていた大人たちはみな、まだ一人では生きられない妹の世話が最優先、自力で歩きはじめた私を後回しにする。それまでは何をしても讃えられていたけれど、そこからはいつも「えらいわね」「おりこうさん」と褒められた。大人の手を煩わせない、大人と同じ分別を持った、聞き分けのよい小さな子供として。

目の前においしそうなお菓子が二つ並んでいる。まず妹に好きなほうを選ばせてから、残りを自分が取る。歩き疲れたところに座席が一つだけあいている。まず妹の足を休めてから、彼女が交代してくれるのをじっと待つ。お気に入りの洋服は、ちょうど着慣れたところで妹へのお下がりとなる。買い与えられたどんなオモチャも、時が来ればいずれ私の手を離れて妹のものになる。それでも妹はすぐ泣く。私は泣かない。だって、私は、おねえちゃんだから。

作りたくない雪だるま

そうやって泣かない子供時代を過ごしてきたせいか、ディズニー映画『アナと雪の女王』を観たとき、私は冒頭のお城で遊ぶシーンから、いきなり大号泣してしまった。我ながら早い。

妹のアナは姉のエルサを強引に揺り起こし、「Do you want to build a snowman?」と尋ねる。エルサは答えないが、つられるように微笑み、起きて妹の雪遊びに付き合ってやる。字義通りに取れば「あなたは雪だるまを作りたいか?」という質問で、まだ眠っていたい姉の答えは「いいえ」である。日本語吹替版では「雪だるまつくろう!」となる。妹にこう言われた姉は必ず「はい」と答える。なぜなら、私はおねえちゃんだから。

自発的に「したい」と思ってすることと、周囲の他者、とくに小さき者にせがまれて「してあげなくちゃ」と思うこと、幼いうちから私にはもう、その区別がつかなくなっていた。何事にも全力を出したり本気になったりしてはいけない。実力を発揮すると独壇場になってしまう。それでは一緒に遊ぶ意味がなくなるし、ともすれば、他者、小さき者を傷つけてしまうこともある。おねえちゃんなんだから、我慢しなさい。時に眠気に耐え、時に手加減して、妹を楽しませてあげなさい。かたや幼い妹は、いつでも自分の「したい」に忠実で、無邪気に姉を揺り起こす。この世界は、俺の、俺だけのもので、俺を中心に回っているのだと思っている年頃だ。自分が作りたい雪だるまを、姉の能力で作ってもらうとき、姉のことは使役ロボットか何かだと思っている。

それでも私は、エルサと同じように、自分ではない誰かに求められて何かをすることが嬉しかった。「したい」が明確な小さき者に、「してほしい」とせがまれて「してあげる」ことが好きだった。部屋の中で雪だるまを作る代わり、着せ替え人形を使ってよくゴッコ遊びをした。子供部屋の人形を全部集め、設定を決め、舞台を決め、配役と台詞を決めて、お芝居を上演するように全部の人形を動かしていく。魔法少女とその敵、ジャングル探検隊、密室殺人事件、前世の記憶を引き継いだ戦士たちの世紀末超能力バトル、どこかで聞きかじった「お話」を人形で演じ分けながら語り聞かせる私に、妹は手を叩いて喜んだ。

「あなたは雪だるまを作りたいか?」と問われたら、答えは「いいえ」だ。それでも妹のために「お話」を作るたび、私は得も言われぬ充実感をおぼえていた。眠い目をこすりながら無言で微笑むエルサの表情を見ただけで、幼い頃のあれこれを思い出す。自発的に雪遊びを「したい」と思ったことなんかない。けれど、小さな妹がそれをせがんだら、いつでも「してあげなくちゃ」と思っていた。不自由と制約の中で「してあげる」を積み重ねた先に、自分の「できる」を見つけるのが嬉しかった。

揺り起こす妹がいなければ、きっと私は何もしなかったし、何もできなかったに違いない。拍手喝采を浴びせてくれる観客、つまり自分以外の「他者」の存在があって初めて、私は自分が何をすべきか、何に熱中できるか、何をしたいか、気づくことができた。かつて作り捨てた雪だるまのオラフに生命が宿ったことを知った雪の女王エルサが、思わず目を瞠るシーンがある。誰かのためにしてやったことが、自分のもとに返ってきた。驚く瞳の中に、たしかに喜びが宿っている。すべての他者に扉を閉ざしたまま氷の城で一人生きるなんて到底無理なのだ。だって、エルサはおねえちゃんだから。「抱きしめて!」と求められたら、思わずその子を抱きしめたくなるのだ。

他者とともに生きる「節目」

もちろん「妹」の皆様にも言い分はあるだろう。我慢していたのは、おねえちゃんだけじゃない。お菓子もオモチャもいつでも取り上げられて、お下がりばかりで新品の服を着せてもらえず、「おりこうさん」と褒められる機会もないまま、先を歩く姉の威光に怯えて、妹の私だって抑圧されていたのだ、と。

『アナと雪の女王』を観ながら、「雪だるま」の次に私の涙腺が決壊したのは、続く「生まれて初めて(For the first time and forever)」だった。我ながら早い。姉のエルサと引き離されたまま、家庭の事情で蓄積された、アナの「したい」が爆発する歌だ。彼女だって雪遊び以外にもやりたいことがたくさんあって、その多くは閉じた姉妹関係の中ではなく、未知なる外界へ向けて開かれたものである。姉も妹も、それぞれの立場で「我慢しなくちゃ」と思っていた。だからこそ「Let It Go」が全世界の女性の心を打ったのだ。

姉の私はよくしゃべり、テキパキとした頭のいい子。妹のほうは、はにかみやでおっとりして、引っ込み思案。いつでもおねえちゃんが主導権を握り、妹は小さくなってその陰に隠れている。大人が用意したそんなキャラクター設定のまま、私たちは何歳くらいまで、そのゴッコ遊びを「演じて」いただろうか。大人になった今、姉の私はものぐさでオタク気質な引きこもり、妹のほうは社交的で友達の多い行動派である。私が必死で「快活なおりこうさん」を演じていたように、妹のほうも長らく「おとなしくてかわいい子」の配役を強いられていた。それぞれに「Be the good girl」を求められ、何度か爆発しては「ありのままの」出奔を繰り返し、落ち着くところに落ち着いてみると、人格形成の紆余曲折はすべて「きょうだいがいたから」で説明がつくようにさえ感じられる。

妹とはもう長いこと離れて暮らしているが、「Let It Go」を歌うエルサを観ながら、少しは私のことを思い出してくれたと思う。共有の子供部屋に本棚でバリケードを積み上げて、食事時以外はその穴蔵のような「城」から出てこなかった思春期の姿を。私は「For the first time and forever」で外界との接触にはしゃぐアナに、学校に通いはじめてどんどん友達を増やし、太陽のように明るい性格になっていった妹の姿を重ねた。私には到底できないことを私より上手に次々と達成していく妹は、姉の目から見ても美しく眩しかった。我慢を強いられるのは嫌だったけれど、妹のことを本気で嫌いだったことは、一度もないのだ。

妹の誕生という「節目」を境に、私は「つねに他者と比較されて、他者とともに自分がある」ということを知った。我ながら早い。きょうだいのいない人、あるいは年齢が離れている人は、そのタイミングがもう少し後にズレるのかもしれない。二人一組で育てられた私たちは、つねに相手の出方を見ながら自分の取るべき行動を決めた。妹がそっちを歩くなら、私はこっちを歩く。私は妹にないものを持っている、妹は私にないものを持っている。お互いを羨み、お互いを疎み、お互いへ向ける感情によって、自分自身の「したい」ことや「できない」ことに気づかされる。

ひとりでに「自我」が形成されていく、ほんの少し手前に、切っても切り離せない「他者」の存在がある。どんな家族構成のどんな家庭環境に育っても、いつかどこかにそんな「節目」が生じているのだと思う。

【住まいメモ】
私は自分が生まれた頃に住んでいた部屋について思い出せない。一階に住む大家さんが二階部分を貸すタイプの賃貸住宅だったそうだ。第二子が生まれるのと前後して、両親はローンを組んで小さな中古の一軒家を買う。現在に至るまで、そこが私の実家である。妹の誕生と、この一軒家が、私の記憶のスタート地点になっている。

<著者プロフィール>
岡田育
1980年東京生まれ。編集者、文筆家。老舗出版社で婦人雑誌や文芸書の編集に携わり、退社後はWEB媒体を中心にエッセイの執筆を始める。著作に『ハジの多い人生』『嫁へ行くつもりじゃなかった』、連載に「天国飯と地獄耳」ほか。紙媒体とインターネットをこよなく愛する文化系WEB女子。CX系の情報番組『とくダネ!』コメンテーターも務める。

イラスト: 安海