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初恋、結婚、就職、出産、閉経、死別……。
人生のなかで重要な「節目」ほど、意外とさらりとやってきます。
そこに芽生える、悩み、葛藤、自信、その他の感情について
気鋭の文筆家、岡田育さんがみずからの体験をもとに綴ります。
「女の節目」は、みな同じ。「女の人生」は、人それぞれ。
誕生から死に至るまでの暮らしの中での「わたくしごと」、
女性にとっての「節目」を、時系列で追う連載です。
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歩の子、金の子、カエルの子

幼い頃から「将来は弁護士になる」と公言する幼馴染がいた。理由は「私のパパはとても立派な弁護士だから」。父親と同じ名門私立大学に推薦入試で合格し、首席で卒業して、在学中に司法試験に受かるのが目標だと言っていた、のだと思う。最初に聞いたときは私も子供すぎて意味がわからなかった。

かつては男児にしか許されなかった道だろうが、私が生まれ育った時代、私が育った環境の周囲では、医者の娘は医者を、政治家の娘は政治家を、教師の娘は教師を、自然と志していた。恵まれた家庭に育った勉強のできる女の子が「尊敬する父のちょっと上を行く、けれども父の轍からはハミ出さない」キャリアを築く。あるいは偉大なる父に反発してイエを飛び出し、きっかり180度逆の道を歩むことで激しく自己主張する。それに比べてうちは、私は、なんだか冴えないな、という気がしたのは、父親がどこにでもいるサラリーマンだったからだ。満員電車で会社勤めする父、子育てに専念する主婦の母、三人の子供、ローンを組んで中古で買ったマイホーム。

「サラリーマンの子は、ほとんどがサラリーマンになる。彼らは父の背中を見て、サラリーマンになるのが当たり前と思って育つからだ。かくて世の中にはサラリーマンがどんどん増えていく」。起業したとある知人は、よくそう言って笑う。企業に雇われ組織に従う「社畜」に対し、かなり棘のある言い方だ。「変ですよね、医者や政治家と違って、世襲するメリットなんかないのに……」と力無く笑い返す私もまた、サラリーマンの娘であるサラリーマンだった。

幼馴染は本当に父と同じ法学部の推薦枠を取った。どこかしらの医学部へ入った友達にはやっぱり医者の娘が多かった。進学先を決めると同時に将来就く職業の専門性まで自動的に決まる彼女らは、趣味嗜好とその場のノリで学部を選択した私とはまるで別種の生き物と思えた。将棋の駒でいうと「金」とか「銀」とか「桂馬」とか。

私は「歩」の娘で、モラトリアム期間にほっといたらやっぱり自然と「歩」に育ち、このままコツコツ進んで、成れたら「と金」になる、という人生なんだなと思った。職業に貴賎があるとは思わないが、駒によってレアリティは違う。使い方、使われ方、活躍の仕方、場に出る数、資格の有無も違う。しかしパッと見て最弱であるはずのこの駒が、「歩のない将棋は負け将棋」などとも言われる。出版社へ新卒入社し、サラリーマンになりたての私の気概は、まぁ、だいたいそんな感じだった。

もしも空気が読めたなら

一張羅のスーツを着て入社式へ出向き、数日間の眠たい座学を経て、身体を動かす最初の仕事は、書店研修だった。「とにかく動きやすい服装で来てください」と言われた通り足元はスニーカーで、エプロンを掛けて店頭で働いた。カリスマ書店員が何をもってカリスマと崇められているのか間近で観察しつつ、激務で腰を壊したベテランに代わり無数の段ボール箱を運び、裏の在庫置場でベストセラーコミックの新刊にビニールシュリンクをかけ続けてナチュラルハイになる日々が約一ヶ月続いた。

いったい自分がどこに就職したのか忘れかけた頃にお迎えが来て、次は倉庫での研修期間だった。鳴った順に電話を受け、注文を聞いて複写式の短冊伝票に書き込み、整理して処理すると、また電話が鳴る。これまたナチュラルハイになる職場だ。御奉公先である書店には失礼があってはならないと緊張して割と早めに出勤していたが、倉庫では9時出社だと言われ、しかし9時に行くといつも私が一番遅かった。数日経って部長から「新人は、だいたい10分前には来ておくといいと思うよ」と言われた。同期入社のもう一人は毎朝、始業15分前には着席していたようだ。

どうして10分前に出社すべきなのか、10分前という目安は何で決まっているのか、理由はよくわからなかったが、言われた通りにすべきであるということだけは、さすがの私にも理解できた。なぜなら私はこの春から「会社組織」に属しており、その最下層に位置するフレッシュマンであるから。定刻までにタイムカードを押しさえすればいいアルバイト先では今までそんな指導を受けたことはなかった。なるほど、これが「会社」か。

取締役が書いた原稿をもとに文書を作成する雑用が回ってきたとき、本人から感想を求められて「はい、よく書けてると思います!」と元気に答えたら、「上司に向かってその物言いは何事か」「良し悪しを判断するのはおまえじゃない」と、周囲の先輩に怒られた。昼食を食べ損ねた午後一番の会議室にコンビニのパンとペットボトルを持参したときも、「アメリカの大学生か」「おまえにはまだ早い」と怒られた。

そんなの最初から就業規則にでも書いておいてくれたらいいのに、不文律が多すぎるよ、と思いながら、読めなかった空気のあれこれは自分で手帳にメモしておいた。注意されたことは一つ一つ、以後気をつけるようにしたが、何年経っても結局、言われるまで気づけないことも多かった。自分と似たタイプの後輩社員が入ってきて組織内でオロオロしているとなんだか嬉しくなって、わざと注意せずにそっと放置しておいたりもした。もちろん別の先輩に「ああいうのは岡田がちゃんと教えないと!」と、また怒られた。みんなどこで教わってくるんだろう?

ケーキ・ケーキ・ケーキ (ドリンク50円引き)

続いては営業研修。取次会社との打ち合わせに出向いたり、書店を回って直接に注文を取り付けたりする。新人は各部署の先輩社員が通常業務をするのに、金魚の糞よろしくヒラヒラついていくだけだ。取引先とのアポイントメントを軸に首都圏を動き回る販売促進部員たちは、移動時間と待ち時間がとても長い。普段はほとんどが単独行動で、金魚の糞がついてくるのはよい暇つぶしになるようだった。

「次の約束もこの近所で、しかも夕方からだから、ちょっとお茶でもして時間潰そうよ。え? 帰社なんかしなくていいでしょー、やだなぁ、まさか君がついて回ってる他の先輩って、そんなに真面目に働いてるの? ……マジで? そりゃまずいな。じゃあ他の部員には、俺がこうしてサボってることは内緒ね。ケーキもおごってあげよう。総務部に出す研修報告には『移動時間を利用して大変ためになるご指導を賜った』って書いといてね!」

どの先輩社員もみんな同じように言うのが面白く、ほとんどすべての人と内緒の約束をして喫茶店での長い長い「座学研修」に付き合い、おしなべて口止め料にあたる昼下がりのケーキセットや何かをごちそうになった。実際こうした時間を共に過ごすうちに業界の実情についてよく学び、異動や転職を経た今もなお非常に役立つお話も多々伺ったので、そこだけはハッキリ書き記しておく。マジで。

平日日中、外回りの営業マンが立ち寄るような喫茶店では、いろいろなサラリーマンを見かけた。天井へ向けた顔におしぼりを乗せたまま爆睡している背広の男、社外秘と思しき紙資料をテーブルいっぱいに並べてあれこれ印をつけているのが丸見えの背広の男、灰皿に火のついた煙草をなげうったまま携帯電話を両手で掲げて虚空に向かってペコペコ平身低頭する背広の男、同じく電話を受けつつ小さな手帳にびっしり予定を書き入れつつ、社名入り封筒を胸に抱えたまま、ついでに脂取り紙で化粧直しも済ませている背広の女。学生のときは気づかなかったが、これらのどこまでを仕事と呼び、どこからをサボりと呼ぶのかは、なかなか判断しづらい光景である。

「おごってやるよ」と言った先輩の幾人かは、どんな店でも社名の領収書を切っていた。一方で、自腹を切ってケーキセットや豪華な昼食をおごってくれる先輩もいて、「本当におごってくれるんですか?」と驚くと、「何言ってるの、こんなことで会社の経費は使えないでしょ……」と驚き返された。言われてみると、他の先輩が切った領収書とて、本当に後日精算して経費で落とされたかは定かでない。新入社員の前で、それぞれに吹き荒れる、先輩風。身を任せているうちに、約三ヶ月の研修期間が終わった。

一歩千金の夢

入社採用面接では口が裂けても言えなかったが、私が就職した本当の理由は、「人生一度でいいから、サラリーマンというものを経験してみたかった」である。なぜなら、一番身近な大人である父親がサラリーマンだったから。よく就職相談に乗ってもらった大学の恩師もまた、長年サラリーマンを経験して独立した勤め人だった。恩師からは「最初の10年は、同じ会社で頑張りなさい」と繰り返し言われた。私が通っていた大学は、日本企業に入った卒業生の離職率が異様に高いことで知られていた。

しかし私は、10年と言わず、許されるなら定年退職するまで、この会社に勤めたいと思っていた。「と金」には「と金」の強さがある。それは私自身が最も苦手とするタイプの強さだった。定められた華美すぎない服装。10分前出社。朝礼での報告・連絡・相談。相手の階級に合わせて使い分ける言葉遣い。使途を明確にして経費で落とす領収書。空気を読んでこなす雑用。

これは「会社員」というよりは「社会人」の基本かつ暗黙のルールなのであるが、ほっといたらそんなもの私には一生身につかないことは、火を見るよりも明らかだった。手のつけられない放蕩息子を寄宿学校へ預ける親のように、私は私自身を早く「会社」に預けてしまいたかった。きっと「会社」なら、私の最も弱い部分をビシバシ鍛え上げてくれるだろう。一番身近な大人にみちあふれ、大学出たての私に圧倒的に足りない強さを、授けてくれるに違いない。つまり、私は私なりに、疑いの余地なく弁護士を志していたファザコンの幼馴染と同じように、身近なサラリーマンの働く姿を尊敬していた、ということである。

個性を没し、自分を捨てて、会社組織の中で「歯車」として働くことは、つねに苦しみを伴う。同じ場所で毎日毎日働き続けていれば、追い追いそのことにも気づいてしまう。先輩社員たちが私を息抜きへ連れ出してくれた理由もその辺りにあるのだろう。しかし、大きな大きな営みの中の小さな小さなピースの一つとして働くことは、時に喜びをもたらすこともある。私がかけたビニールシュリンクが、私が書き込んだ注文伝票が、個人名ではなく会社の名前で切った領収書が、小さな小さな一つ一つが、この社会を動かしている。私はその喜びのほうを信じて「選択」したのだ。

会社の裏口から歩いて一番近くにあるチェーンの喫茶店は、壁にそってずらりと一名掛けの席が並んでおり、店内の照明をわざとらしく暗めに落としていた。都会のオフィス街では、たまにそんな店を見かける。試用期間を終えて編集部に配属となった私は、勤務時間中に疲労が限界に達するとそこへ行き、一名掛けのソファ席で壁にもたれてコーヒー1杯分の仮眠をとった。営業研修のときに見た、天井へ向けた顔におしぼりを乗せたまま爆睡している背広の男を思い出しながら。「金」や「銀」や「桂馬」が仕事中にどうやって休憩をとり、どうやって社会を動かすお役目から一時休場するのかは知らないが。盤側の駒台に乗ってふたたび自分の出番を待つ「歩」の駒を思い浮かべながら、私はそうして目を閉じた。

<今回の住まい>
初任給は、ほとんど貯金して引越資金に使った。就職と同時にふたたび部屋探しを始め、配属直後に一人暮らしを始めたのだ。都心の一等地にあって墓地の裏手、真四角の間取りの東と南に大きく窓が開き、路地を挟んだ向かいの家の寝室が丸見えの木造アパートだった。和式便器から改装したと思しきバストイレは別だが、収納と洗濯機置場がない。週末は近所の銭湯にあるコインランドリーまで、ゴムバケツいっぱいの洗濯物を抱えて往復した。一等地ゆえ近くには結婚式場もあり、日曜日はきらびやかに着飾った晴れ着姿の男女とすれ違った。ゴムバケツを抱えた部屋着姿の私はしかし、親元から独立した喜びをかみしめていた。

<著者プロフィール>
岡田育
1980年東京生まれ。編集者、文筆家。老舗出版社で婦人雑誌や文芸書の編集に携わり、退社後はWEB媒体を中心にエッセイの執筆を始める。著作に『ハジの多い人生』『嫁へ行くつもりじゃなかった』、連載に「天国飯と地獄耳」ほか。紙媒体とインターネットをこよなく愛する文化系WEB女子。CX系の情報番組『とくダネ!』コメンテーターも務める。

イラスト: 安海