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初恋、結婚、就職、出産、閉経、死別……。
人生のなかで重要な「節目」ほど、意外とさらりとやってきます。
そこに芽生える、悩み、葛藤、自信、その他の感情について
気鋭の文筆家、岡田育さんがみずからの体験をもとに綴ります。
「女の節目」は、みな同じ。「女の人生」は、人それぞれ。
誕生から死に至るまでの暮らしの中での「わたくしごと」、
女性にとっての「節目」を、時系列で追う連載です。
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自転車でおいでよ

有給休暇をとって自転車に乗り、自宅から数キロ離れた実家に程近い銀行支店へ行き、大学と大学院、あわせて6年間分の学費ローンを繰り上げ返済した。修士課程修了から10年、34歳までかかる予定だった借金の完済を30歳で達成したお祝いに、近所の店で一人、アイスレモネードを飲んだ。そんな一日の感慨をブログに綴ったのが、2010年9月のことである。

同じ話を繰り返して書くつもりはないのだけれど、この「貸費奨学金として機能する教育ローン」という仕組みは、私の20代を本当によく支えてくれた。たしか、途中で退学したり前科者になったりすると即刻全額返済という規定があったのだ。卒業と同時に月々の返済が始まるので、よほどの一攫千金がない限りは手堅く就職するのが無難だろうとも思うようになった。こうした「枷」がなかったら、どこまで道を踏み外していたことか。「この世に自分ほど信じられんものがほかにあるか!」は横島忠夫の金言にして私の座右の銘だが、自分と違って、お金は裏切らない。諦めが早く怠惰な自分と違って、どこまでも謹厳実直かつ執拗に私を追いかけてくる。

たかが数百万、されど数百万。当時、生では見たこともない桁の金額だ。完済予定日に書き込まれた「2014年」という想像もつかない遠い未来。19歳当時の私は真剣に、34歳までに自分が死んでいるか、地球が滅びている可能性のほうがずっと高いと思っていた。どっこい生きてる、30歳。10代のとき買ったTシャツを着て、10代のとき住んでいた町の銀行通りで、すっぴんに汗だくでアイスレモネードを飲んでいる。あの頃と何も変わらないのに、今日からはまるで大きく違う。

借金から解放されるこの喜びは、借金を背負ったことのない人には、きっと理解できないだろう。お金が私を縛り、お金が私を戒め、そして今、お金が私に新たな自由をくれた。さっき実印を捺した書類一枚で長年の定期預金はすべて消え、次の給料日まで文字通りの残高ゼロだが、引き続き定職には就いているし、またコツコツ積み立てていけば、スイス製のちょっといい自転車を買える程度の余裕はある。さて、次に何をしようか。

台湾はあまりに遠し

倹約家というわけでもないが、浪費家というわけでもない。ものすごくお金のかかる特別な趣味を持っているわけでも、習い事をしているわけでもない。オタクだから金遣いが荒いようにも見えるが、他の同年代の女性がファッションや美容に注ぎ込む金額を思えば大したことはないだろう。それで、今までの月々の学費返済と同じだけ手元に残るとしたら、私は何ができて、何をしたいと思うのだろうか。

最初に思いついたのが、「旅に出たい」だった。当時よく飲み歩いていた街の安居酒屋は、どこもかしこもトイレの個室にピースボートかワーキングホリデーかその両方のポスターがべたべた貼ってあった。あれは本当に賢いプロモーション戦略だと思う。とくに目的もなく生き、どこにも身の置き場がなく呑んだくれている若者の、泥酔した脳への刷り込み効果は絶大である。

海外への一人旅をしたことは一度もなかった。父親の定年祝いで家族旅行したのが最後、場所はインドネシア・バリ島のリゾートで、帰省しての家族サービスと大差なかった。スケジュールも実家任せ、出発前日まで校了で慌ただしくしていた私は、渡航先を「パリ」と勘違いして荷造りしていたくらいだ。実家に変圧器が要るかと問い合わせて発覚したのだが、パリとバリは電圧が同じだったりする。

ともあれ、手始めに、一人で台湾へ行こうと思った。台湾を舞台にした小説を読んで以来ずっと興味を持っていたし、高速鉄道の開通後、ちょっとしたブームが起きて雑誌の特集などもよく組まれていた。行ってきた人たちが口を揃えて熱っぽく魅力を語り、その多くが気軽な一人旅であることも背中を押した。会社には夏期休暇の申請を出し、ガイドブックをいくつも買い込んで、仕事の合間にうきうき眺め、印をつけたりもした。

ところが結果的にこの旅は実現しなかった。どうしても外せない用事が入ってしまったのだ。一緒に働いている人々から、大変申し訳ないが夏期休暇は数日ずらして取ってほしい、と頼まれて、実際そのようにした。たいした料金でもないのにバカみたいに早くから取っていた割引チケットは無駄になり、ホテル代なども含めると、正規料金との差額より高いキャンセル料が発生した。

有楽町の交通会館の前で、歩きながら携帯電話で旅行会社とやりとりをしたのをよく憶えている。真夏日だったが、せいぜい 6月か7月初旬だろう。ランチタイムのOLはみんな日傘を差していて、私だけ手庇で直射日光を避けつつ、アスファルトからの反射熱に焦がされていた。台湾の夏はもっと暑いと聞く。行きたいな。仕事だからしょうがないけど。電話口で「ご予約の取り直しをなさいますか?」と尋ねられ、私は「いいえ、結構です」と答えた。数日遅れて本当に夏期休暇が取れるなら、その日の朝に正規料金を握りしめて乗れる飛行機に飛び乗って、それで台湾に行こう。そうすればいいんだ、私にはお金があるんだから、労働組合であれだけ闘争した甲斐あって、ボーナスだって入るんだから!

結局そんなことはせず、その年の夏休みはクーラーの効いた自宅の部屋に閉じこもり、漫画を読みDVDを観ていつものようにダラダラ過ごした。お金があっても時間がない。時間があっても管理できない。遊びに出かける気力もない。そしたら私、ずっとこのまま、こうやって生きて死ぬんだろうか。幻に終わった一人旅が私にもたらしたショックは、旅先で受けたであろうカルチャーショックより、ずっと大きかったと思う。

仕事は、お金のため、ならず

もちろん、こんなことで会社を辞めたわけではないけれど、会社を辞めようと決めた際、このときのこともよく思い出した。「私はいったい何のために働いているんだろう?」という自問を繰り返すようになったのは、入社時からずっと志望していた編集部に晴れて転属となって以降のことだ。

私の望みは、出世もせず転職もせず、同じ職場環境でずっと自分の好きな本を作り続けること、それだけだった。独立や起業の夢を語る同世代の話も、自分とは無関係な遠い出来事として聞き流していた。なぜなら私の望みはすでに叶っているから。あとはこれを定年退職までしぼませないように、さらに大きく素敵にふくらませていくだけだ。「本当に?」と問われたら、YESと答える自信があった。「では、何のために?」と問われると、途端に足元がぐらついた。

「決まってるじゃん、働くのは、お金のためにだよ」ときっぱり答える友人たちがいた。妻子や親を養っていたり、開業の準備をしていたり、あるいは、テストの点数を競い合う学生と同じ感覚で「35歳までに2億!」などと目標を掲げていたり。私よりずっと大きな借金を抱えている友人も少なくない。学費を払い、クルマや家を買い、先祖代々の負債を肩代わりすればそうなる。彼らの姿を見て、私はもはや「お金のため」という動機を失ったのだと思った。とっとと手放せて喜んでいたはずが、ひとたび消えると、私はそれ以外に動機なんか持っていなかったんじゃないか、と不安になる。

仕事終わりにジョッキで生ビールを呷り、「この一杯のために生きてる!」と言う人がいた。私は違う。「好きな仕事に就けているのなら、些細なことに文句は言わずぐっと我慢できるはずだ」と言う人がいた。私は違う。「名の知れた企業で正社員という肩書きを得て、それだけでも羨まれる時代なのに、贅沢な悩みですねー」と鼻で笑う人もいた。私はそうは思わない。自分で決断して、自分で選択して、自分なりに納得していたはずのことを、まったく納得できていないどころか、一番大事なところに今までフタをして生きてきてしまったのではないか? と考え始めると止まらなくなった。

そのフタには、19歳の私の筆跡で「お金のため」と書いてあり、横には丁寧に実印も捺してあったのだろう。でも、ぶっちゃけそこまで困窮しているわけじゃないし、めちゃくちゃ高給取りなわけでもない。時給換算で単純比較すればウェイトレスや家庭教師のアルバイトをしていた学生時代とそう変わらない稼ぎ方で、その極めて非効率な職種を好きで選んだのは私自身であり、そして、そんな状況にあっても学費くらいなら払い終えることができた。

「お金のため」ならいくらでも阿漕になればよかったものを、私にはもうそのフタもない。といって現状、自由気ままな一人旅にさえ出られない。しかも私を縛っているのは、目の前にある仕事の忙しさなんかじゃないことは明白だ。独り身で健康で、好きな仕事をして週末は寝て過ごす時間もあって、こんなにどうにでもなりそうな人生なのに、実際にはまったくどうにもならない、ように思える。なんでだ!?

帰りたくなる旅

転職の誘いを受けたのは31歳のときで、リスクは増すが、年収は今と同程度という条件だった。実際に会社を移ったのは32歳になってからで、その前後にあちこち旅をした。退社から入社までの二週間は、ニューヨークへ行った。

一冊目の本(『ハジの多い人生』)に書いたので、同じ話を繰り返すつもりはやっぱりないのだけれど、「私はこのために生きて、死ぬんだな」という実感が得られた、初めての海外一人旅だった。両手で一度に運べるだけのカバンを二つ持ち、ラブホテルを改装したような安宿に連泊し、日中は町をうろうろ歩き回り、昼食と夕食は必要最低限にして朝食と観劇にだけうんとお金を使い、下着は手洗いしてワンピースはランドリーに出し、靴を履きつぶして量販店でまったく違うかたちの靴を買い求め、降りる駅を決めずに長距離列車に乗って郊外へ出かけ、たまたま来ていた周遊バスに運ばれて時間を忘れては慌ててタクシーで目的地へ引き返し、気に入った場所があれば腰を下ろして、日が暮れるまで日記を書いていた。

傍目には貧相な旅だが、私には贅沢な旅だった。「この瞬間のために生きてる!」といった類の派手な喜びはなかったが、「地球のどこに生きても、このくらいの暮らしが保てるようでありたい」と思った。小遣い帳をつけるのは三日で放り出したが、途中で資金が尽きることもなかった。できないこと、諦めたこともあるが、やってやれなくもなさそうなことは全部やり、ごくごく個人的な満足を得た。ニューヨーカーの知人はたくさんいるのに、結局、誰とも会わなかった。会えなくて寂しいとも思わなかった。

何よりの収穫は、「あー、日本に帰りたくないなぁ」と思わない初めての旅だった、という点だ。むしろ「帰ったら、私は私の仕事を頑張ろう」なんて、殊勝なことを幾度も考えたりする旅だった。たとえば傍らに旅の友、気心知れた話し相手がいたら、とてもそうは思わなかっただろう。旅先の景色が二倍美しく見えるぶん、惜しむ気持ちもそれ以上に増えて、暴飲暴食と解放感で日頃のストレスを晴らしただけ、帰国後は余計に落ち込んでいたに違いない。

子供の頃から「一人になる」のが好きで、人生に占めるその割合を、なるべく増やせるようにと思って生きてきた。ただそれだけのことだったと気づくのに、30年以上かかってしまった。「私はいったい何のために働いているんだろう?」という問いかけへの答えはまだ保留中ではあるが、お金を稼ぎ、時間を作り、縛りや戒めを一つ一つ解いてゆきながら、自分の答えを見つめ直すことはとても大切だ。あの旅を境に、「一人になるため」が、私の暫定の回答となった。

<今回の住まい>
31歳で転職を決めた、とあるのは2011年のこと。3月11日の東日本大震災の揺れは、東銀座で受けた。その日の予定をすべて切り上げて会社へ戻り、テレビで津波の映像を見て言葉を失い、銀座の店に行列してスニーカーを買って、支給されたヘルメット片手に数時間かけて徒歩帰宅した。間取り1Kの部屋では雪崩のように本が崩れ、ベッドの上にも散乱していた。眠っている間に書架に押し潰されてもおかしくないと思った。6月には同じ町の2Kの賃貸へ引っ越して、書斎と寝室を分けた。できることは、すぐやろう、後悔しないうちに。怠惰な私でさえそう思う出来事だったのだ。一人旅は実現しなかったが、新居でダラダラ過ごした。そんな夏だった。

<著者プロフィール>
岡田育
1980年東京生まれ。編集者、文筆家。老舗出版社で婦人雑誌や文芸書の編集に携わり、退社後はWEB媒体を中心にエッセイの執筆を始める。著作に『ハジの多い人生』『嫁へ行くつもりじゃなかった』、連載に「天国飯と地獄耳」ほか。紙媒体とインターネットをこよなく愛する文化系WEB女子。CX系の情報番組『とくダネ!』コメンテーターも務める。

イラスト: 安海