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初恋、結婚、就職、出産、閉経、死別……。
人生のなかで重要な「節目」ほど、意外とさらりとやってきます。
そこに芽生える、悩み、葛藤、自信、その他の感情について
気鋭の文筆家、岡田育さんがみずからの体験をもとに綴ります。
「女の節目」は、みな同じ。「女の人生」は、人それぞれ。
誕生から死に至るまでの暮らしの中での「わたくしごと」、
女性にとっての「節目」を、時系列で追う連載です。
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あなたもどうか、わたしを取って

昔の日記を後になって読み返すのはなかなか面白いもので、しかし本当に知りたい肝心なことが書いていなかったりする。私は2000年前後からホームページ無料レンタルのサービスを使って日記を書いていた。二度と再現不可能な若さと勢いがあって、ログを読み返すと飽きない。手前味噌ながら、もし今こんな女子大生ブロガーがいたら、ちょっと原稿を頼んでみたいな、とさえ思う。なぜなら私は2004年に就職して、それからは出版社勤務の編集者になったので。

探していたのは2003年初夏の日記だ。就職活動中に何を書き残していたのか知りたかったのだが、2月、3月、4月、5月と書いて、次は内定式を済ませた10月まで飛んでいる。本命企業の選考過程についてはいっさい伏せてあった。おまえ、案外ちゃんとしてるじゃないか。就職した春には過去の日記や趣味のページなどを閉鎖して、以後はインターネット上で無責任な発言をするのは控えよう、ときっぱりケジメをつけたりもした。すぐ戻ってきちゃったけど。

それにしても、当時の私はあの日のことも何も書かなかったのか、と驚く。「初めての、就職」でお世話になった、私が社会人としての第一歩を踏み出したその出版社の、面接をすっぽかそうとしたときのことを。

「え、その日じゃないとダメなんですか? どうしても大事な用があって、朝から大学院の研究室に居ないといけないんですけど。一次面接ってまだ人数も多いでしょうし、数日に分けて実施するんですよね。翌日か前日の組に入れ直してもらうことって、できませんかねぇー?」

研究室棟の階段の踊り場で受けた電話の向こうで、総務部の男性が言葉を失い、息を飲む音が聞こえた。いや、ちょっと、そういうことは、していないんですよ、と言われて、私の継いだ二の句は、こうだ。

「でも、どの日に誰を面接するかって、御社が機械的に決めたことですよね。もし他に指定の日時では都合が悪いという受験者がいたら、その方と私のアポイントを入れ替えるのはどうでしょうか。それだとすごく助かります。そういう人も、いなくはないと思うんですよね」

電話を切って研究室に戻ると今度は教授に呆れられ、「こちらの用事はいくらでも動かしていいから、言われた通りの日に行きなさい。会社員になるって、そういうことですよ」といったようなことを諭された。当然、総務部から二度目の連絡はなく、私はうんざりした思いで、指定された日時をあけて面接に出向いた。

僕はここで見ていよう、君が堕ちていくところを

新卒採用試験を受け始めたのは、2002年末からだ。私にとって「サラリーマン」は最もなるのが難しい職業と感じられ、だからこそ、会社員に憧れていた。何せ、自分で好きに名乗る肩書きと違って、自分以外の誰かに選ばれなければならない。卒業後すぐフリーランスになったり、バイト先でそのまま働く選択肢もなくはなかったが、まずは挑戦してみたかった。とくに公共放送の番組制作に興味があって、予行演習のつもりで民放テレビ局を何社か受けた。東京在住なので交通費などたかが知れているし、受験料を取られるわけでもないのだから、本番前にいくらか場数を踏んでおいたほうがよいと思ったのだ。

最初に採用が始まるのはアナウンサー職で、パステルカラーのツイードジャケットが咲き乱れる華やかな面接会場では、ふわふわした女子学生がキラキラ輝きながらハキハキした黄色い声でしゃべり続ける合間に、学ランに腕章をつけた体育会系男子学生が応援指導のパフォーマンスを実演していた。「スナップ写真」とある欄に、祖母の家の門前で撮ったようなやつを貼りつけてきたのは私ともう一人二人だけで、残りはみんな伊勢丹写真室と思しき、斜めに構えた上目遣いの笑顔が眩しいブロマイド、もといポーズ証明写真だった。「制作職の試験も、この調子で頑張ってね」とにっこり微笑まれて落ちた。

お台場にあるテレビ局の二次面接も忘れがたい。対峙したのは真っ黒に日灼けしてハワイの空色したピンストライプシャツの裾をまくり、第四ボタンくらいまではだけて胸毛と金鎖をのぞかせたチョイ悪オヤジだった。すごい、これでピンクのセーターを肩から羽織ってたら完璧じゃん! ギロッポン! と快哉を叫びたくなるほどの絵に描いたようなギョーカイ人である。受けた質問は「オトコとオンナが同じ仕事を同じようにできると思う~?」で、私の回答と選考結果は言うまでもない。本命の公共放送も最終面接近くまで進んだが、「『ラジオ深夜便』か『名曲アルバム』を作る部署に骨を埋めたい」とフレッシュには程遠い正直な夢を語ったら見事に落ちた。

同じ頃、ある民放子会社から内定を受けた。そこでの業務が志望と合致していないことは、自分が一番よく知っていた。焦燥感をバネに次なる本命、総合出版社の編集職に焦点を合わせたものの、結果は惨憺たるものだ。面接に進むと決まって何か失敗する。ありえない失言を漏らしたり、資料を取り違えたり。朝の満員電車内で体調を崩して救急車で病院へ搬送され、試験会場に辿り着けなかったこともあった。リスケジュールされた面接は形ばかりで、「編集者は身体が資本ですからね」と労われて終わった。

件の中堅出版社から一次面接の連絡を受けたのは、そんな折りだ。本命とか滑り止めとか関係なく、なんだかもう、就職活動のすべてが面倒に思えてきたタイミングだった。大学院での研究だって暇というわけではないのに、あちこちの企業から降ってくる唐突な指令に振り回されてはフラレ続け、すっかり嫌気がさしていた。それでつい、愚痴を漏らしてしまったわけだ。どうして私の都合を考えてくれないんですか? と。

何人採るのか? 男女何人か? 何人採るの?

やつあたりでプリプリしながら臨んだ面接は、これまたひどい出来だった。筆記試験の作文はなぜこの題材かとか、どうして履歴書の写真でスカーフを巻いているのかとか、最近読んだ本はとか、他愛ない質問ばかりなのに、答えに窮して何十秒も硬直してしまった。地下鉄京橋駅へ下りる階段の手前で研究室に電話をかけ、「せっかく先生に融通してもらったけど、今日のは落ちたわー。夕方までに戻ります」と告げたとき、ふと、それまでにない不思議な清々しさを感じた。しこうして私は、その不出来な面接を通過した。二次面接はおとなしく指定された通りの日時に赴くと、廊下で順番を待つ間、たまたま通りかかった女性社員が、なぜか私にだけ微笑んだ、気がした。首の皮一枚で一次選考をくぐり抜けたはずの私の、二次面接の評価は、満点だったのだそうだ。

三次が最終面接で、同じ日に健康診断も受けた。十数名が一度に呼び出され、京橋の本社ビルから銀座にあるクリニックまでカルガモのように行進して往復し、近所の定食屋でライバル全員が膳を並べて昼食をごちそうになり、午後、順番に役員面接をしたら終わり。大手出版社と違って小さいところは話が早くていいなぁ、と思った。十数通目の履歴書を送った先で、同時に受けていたのは児童書の出版社と、刊行物の多い大手化粧品メーカーの宣伝部。この三つ全部に落ちたら、就職活動は中断して何か別の道を探ることに決めていた。

決めた途端に、京橋の出版社は次の電話を掛けてきた。やっぱり小さいところは話が早くていい。一次面接のときと同じ、渋い声の男性だ。今度は大変マイルドな口調で、しかも半笑いだった。ちょっと待て、これは内定の連絡じゃないのか、なんでこのオッサンはこんな大事なときに半笑いかよ、と訝りながら、恵比寿駅へ続く道すがら、壁の隅に寄って必死で用件を聞き取ろうとする。

「あのね、あなた、健康診断の尿検査で引っかかってましてね……うん、おしっこです。今から言う診療所に行って至急、再検査を受けてもらえませんか/ 一応、その検査結果が出てから、皆さんへ合否連絡となりますから。みんな、あなた待ちなんですよ、うん、あなたの尿待ち」

慌てて再検査を受け、あっという間に内定が出たわけだが、「あのときはさー、岡田くんの尿待ちでさー、俺も参ったよー! 我が娘のようにハラハラしましたよ!」と入社後もさんざんネタにされた、渋い声の総務部人事担当は、偶然にも幼馴染の実の父上だった。もちろん、そんなことで1,000人中2人しか採らない会社に入れるわけもなく、ひたすら「ご縁」としか言いようのない出来事である。

偶然が重なり続けて道が出来てゆく

もし私が面接日についてもうちょっと強い口調でゴネていたら、そして採用担当がもうちょっと狭量で短気な人だったら、クレーマー扱いで落とされていただろう、とは思う。面接官に「なんでスカーフ巻いてるのか訊いて」と告げたのは別の社員で、「手持ちのシャツを全部洗濯に出しちゃってて、襟のないインナーだけだとスーツが貧相に見えたので……」という回答が、当日の凍るような沈黙よりもウケたらしい。通りすがりの女神に微笑まれた二次面接では、「もし上司と編集方針が合わなかったら?」と問われ、「徹底的に戦います!」と答えた。彼が社内で最も好戦的な編集部長で、普段着もミリタリーベストであるということは、入社後に知った。

そんないくつもの偶然が、もしも他のところで違うふうに重なっていたら、私は今頃、テレビ局や、他の出版社で働いていたかもしれない。まぁ、女子アナはないにせよ。何か私にしか持ち得ないもの、個性だとか、能力だとか、実績だとか、そんなものが評価されてこの会社に迎え入れられたとは、到底考えられなかった。すべては運だ。

尿検査を待つ診療所で私は初めて、「どうせ落ちるんだろうなぁ」を超えて、「ここ落ちたくないなぁ」と思った。先の見えない競争に疲れ果て、どうせ選ばれないのなら大学の用事を優先させたいとさえ考えていたけれど、これだけやらかしてもまだ落とされないってことは、入ってからも好きに仕事させてもらえる職場環境に違いない、と思った。実際その通りだった。

児童書の出版社と化粧品の宣伝部には落とされ、民放子会社の内定は辞退した。他のあらゆる可能性を切り捨てて、たった一つの未来を選ぶ。就職先を決めるというのは、とても大きな人生の「節目」である。しかし、あれだけ頑張って身構えて、窮屈なスーツに身体を押し込み、ダメモトと知りつつ果敢な挑戦をした……にも関わらず、人生にとってこんなに大事な「節目」が、結局「ご縁」なんてもので決まったりもするんだよなと、今は思う。

よく、意識の高そうな先輩社会人たちが、ケツの青そうな学生どもに向かって、「自分は就職活動からじつに多くの学びと気づきを得た。すべての出会いに感謝」なんて説教をするのだけれども、私はといえば、言えてせいぜい「偶然を楽しむ心の余裕って大事だよ」くらいだ。当時のウェブ日記に、もっともらしい「シューカツの総括」など書いていなくてよかったかもしれない。定年まで勤め上げるつもりで入った会社から、たった8年で転職するなんてことも、我々の身には簡単に起こる。

<今回の住まい>
今はもう廃れているのかもしれないが、当時は「就職活動中、現住所の欄には、首都圏に実家があるならそちらを書いたほうが有利」という、謎めいた不文律があった。実家住まいの人間のほうが採用しやすいということなのだろうか。私だったら、学生時代から仕送りに頼らず、必要なだけ自活できている人間のほうが好印象だけどなぁ、と不思議に思っていた。その後、内定が出てから妹との二人暮らしを解消し、一時的に実家へ戻ったが、かつての子供部屋にもう私の暮らすスペースはなく、初任給から夏のボーナスまでを引越費用に宛ててふたたび家を出ることになる。住宅手当は月六千円。これがどこから出てきた数字かも謎のままだが、労働組合の先輩闘士諸氏の血と汗と涙の結晶であろう。

<著者プロフィール>
岡田育
1980年東京生まれ。編集者、文筆家。老舗出版社で婦人雑誌や文芸書の編集に携わり、退社後はWEB媒体を中心にエッセイの執筆を始める。著作に『ハジの多い人生』『嫁へ行くつもりじゃなかった』、連載に「天国飯と地獄耳」ほか。紙媒体とインターネットをこよなく愛する文化系WEB女子。CX系の情報番組『とくダネ!』コメンテーターも務める。

イラスト: 安海