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初恋、結婚、就職、出産、閉経、死別……。
人生のなかで重要な「節目」ほど、意外とさらりとやってきます。
そこに芽生える、悩み、葛藤、自信、その他の感情について
気鋭の文筆家、岡田育さんがみずからの体験をもとに綴ります。
「女の節目」は、みな同じ。「女の人生」は、人それぞれ。
誕生から死に至るまでの暮らしの中での「わたくしごと」、
女性にとっての「節目」を、時系列で追う連載です。
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クララが立った!

以前にも書いた通り、私の初恋の相手は色白で線の細い男の子だ。元気に幼稚園へ通っていた彼の実際の健康状態は記憶にないけれども、幼い私は彼の「病弱そうな」佇まいに惹かれていた。もっと言えば、もともと自分の中にあった「病弱」幻想にぴったりの憑代(よりしろ)として、手近にいた彼を好きになっただけかもしれない。生まれてこのかた大きな怪我や病気をしたことのない私は、だからこそ「病弱」な人々に見果てぬ夢を描き、憧れ、羨んでいた。それはたとえば、バーネットの小説『秘密の花園』に出てくる車椅子の少年コリンのような男の子、ちばてつやの漫画『ユキの太陽』に出てくる社長令嬢の岩淵早苗ちゃんのような女の子。

児童向け作品のおてんばヒロインに感情移入しながら私は、「自分にはないもの」を持った臥せりがちの美少女美少年に惹かれ、彼ら彼女らと親密になりたいと願っていた。美しく裕福で儚げな、籠の鳥。二本の足で立ってどうとでも歩いていける野生児の私と違って、誰かの支えや特別なしつらえを伴わなければ命をつなぐことも難しい存在。モヤシッ子が筋骨隆々のマッチョなヒーローに憧れるように私は、触れなば落ちん、という風情の瀕死のヒロイン(年齢性別不問)にグッとくる。裏返せば、それだけ自分が頑丈だったのである。

学校の図書室で借りて読む本の中では、貴婦人がしょっちゅう気絶しては気付薬を嗅がされ、お嬢様はサナトリウムで肺病と闘い、戦場から生還した勇者は古傷の疼きや幻肢痛に悩まされている。私はそのどれも経験がない。「朝礼の最中に貧血で倒れる」とか「手術のために入院する」とか、一度やってみたいなぁ、松葉杖で登校できれば最高……と思案しながら車道を横切っていたら通りかかった軽自動車にハネられ、ボンネットに乗り上げるまでの交通事故に遭った。き、キター! と大興奮のまま整形外科へ担ぎ込まれたものの、診断は「全身打撲」でその日のうちに家へ帰され、「えー、骨折じゃないのー」と不服を申し立てるような小学生だった。

小児喘息で入院した経験のある級友からは、「病院生活って、あんたが思ってるようなイイもんじゃないんだから!」とさんざんなじられ、しばらく口をきいてもらえなかった。経験をもって発せられる言葉の重みがグッと胸に響く。彼女がたった一人で克服したその苦労を、みずから勝ち取った生きる喜びを、同じ年の私はまったく知らない。自由と不自由、健康と不健康、生と死。片方しかない自分がひどくアンバランスに思え、ますますもう一方を「経験」したくなった。今度は『王子と乞食』めいた話だ。

そして、「おまえさん、そんなに病弱なお姫様になりたいんだったら、あたしがその夢を叶えてやろうかえ……?」と、森で悪い魔法使いにそそのかされたわけでもなかろうに、二十歳を過ぎてからの私は、急速に自身の健康を損ねていくことになる。

錠剤、噛み砕いて

最初の異変は婦人科系だった。10代までは何とも感じなかった生理痛が20歳を過ぎるとみるみる悪化して、月経前はほとんど毎月、激痛で半日以上ベッドから起き上がれなくなる。風呂場で脚の力が萎えたまま意識を失ったり、往来で突然ぶっ倒れて救急車で運ばれたり、ありとあらゆる失態を演じたが、検査をしても具体的な原因がわからない。子宮内膜症も筋腫の類も見つからず、月経前症候群(PMS)の一種、自律神経失調症のようなものだろうという診断で、市販の鎮痛剤を多めに服用することでしのいできた。

性交渉のときさえピンと来ない子宮という臓器のかたちが、くっきりわかるような鋭い痛みである。志賀直哉の小説『赤西蠣太』に侍が自分で自分の腹を割いて腸捻転を治した逸話があって、激痛に床をのたうち回りながら私はいつもこのくだりを思い返していた。今すぐこの腹かっさばいて、子宮を取り出してじゃぶじゃぶ丸洗いできたらどんなにいいか。朦朧とする意識に屈して台所の包丁を持ち出さないよう、必死で堪えていた。症状が出ている最中は寝たきりで、寝具もすべて取り替えるほど大量の汗をかく。服を着替えて病院へ行くのは、すべてが終わった後だ。

正午を過ぎてから勤め先に病欠の電話を入れたり、そのくせ半日経った夕方にはケロリと遊びに出かけたり、すこぶる元気そうなのに「大事をとって」翌日の予定を急遽キャンセルしたりするもので、周囲からはまぁ、サボッていると誤解されたことだろう。「生理痛なんて子供を産めば治るもんだ」という謎のアドバイスもしょっちゅう受けた。たしかに体質が変わることもあるだろうが、出産は「治療」ではない。いかに「病気」扱いされないかという話である。

次に悩まされたのは不眠症だ。おそろしく寝つきが悪く、眠りに就ける時間帯がズレてきて、翌日以降の日常生活に支障を来す。もともと夜型のロングスリーパーだったのが、編集者という職業柄、どうしても「夜討ち朝駆け」状態になる。私はそこで短時間睡眠に切り替えることができなかった。数十時間覚醒して十数時間睡眠する不規則な生活を続けながら、「ひとたび寝てしまったら定刻に起きられなくなるかもしれない」という恐怖でどんどん眠れなくなり、何をするわけでもなく徹夜状態で朝の仕事へ行く日々が続いた。

今夜もまた前夜と同じように眠れないのではないか、眠れないと取り返しのつかない粗相をするのではないか、不安でさらなる緊張を強いられ、症状がひどくなる。のちのち「概日リズム睡眠障害」という言葉を知ることになるのだが、20代後半の当時はまだ、「自分はもしかして、うつ病なのではないか?」とも疑っていた。仕事の合間に精神科や心療内科をハシゴして、よりどりみどりの睡眠薬を処方してもらう。働くために薬が必要なのか、薬代のために働いているのか、なんだかよくわからない状況だったが、尊敬する上司も一緒に仕事する仲間もみな何かしら身体に「故障」を抱えながら私以上の激務をこなしているのだから、それが当たり前だと思っていた。

脳病院へまゐります。

「眠れなくて精神科へ通ってるんだ」と言うと、あちこちでギョッとされる。「待合室には頭のおかしな人たちがたくさんいるのか?」と真顔で訊かれたこともあった。別の科にかかるならまず受けないであろうそうした偏見の眼差しよりも、私は、自分の不健康を放置しておくことのほうが、よっぽど怖かった。尊敬する上司、一緒に仕事する仲間、友人の友人、飲み屋ですれ違った客。素人目にも明らかに重篤な精神の病を抱えていると思われる人たちが、周囲にたくさんいた。そのほとんどに自覚症状がなく、自分は「マトモ」と信じきったまま、病的な言動で他者を振り回しては疲弊させていた。私も傍目にはあんなふうに見えるのかもしれない。睡眠を、心身を、自分をコントロールできず他人に迷惑をかけている現状を、一刻も早く脱したい。

とはいえ、吐いて下痢をしたとか、骨が折れて血も出たとか、目に見えてわかりやすい患者とはわけが違う。医師の見立てはてんでばらばら、新しい診断を下されるたびに右往左往して、なかなか腰が落ち着かなかった。仕事があると朝一番の診療予約しかとれず、となると数度に一度は薬が効きすぎてすっぽかす。「ちゃんと時間通りに来てくださいね」「いや、だからそれを治したいんですってば!」で押し問答となった医院もあった。精神安定剤を服用すると気分が悪くなる。副作用が少ない入眠導入剤でも寝起きにひどいめまいに襲われる。中途覚醒はしないのに、それを抑える薬が不思議と効く。かたや、ある医師に「気休めですよ」と一笑に付された光療法は、かなり効果的だった。

行き着いたのは結局、最寄駅の駅前にある小さな小さな心療内科で、階下の薬局のために処方箋を書くのがお仕事、というようなナメきった態度の小太りの院長だ。「まぁ、うつ病ではないですよ。寝れば治るんだから」「休職の診断書を書いてあげてもいいけど、あなたは会社行けないと悪化するタイプだよね。社畜乙」「本当に薬飲むの向いてないねー、でも漢方はもっと向いてないだろうね」といった脱力系の挑発口調は、私の意欲を覿面に削ぎ、代わりに少しの元気をくれた。

仕事熱心には程遠く、「ヤブ」と呼んで差し支えない医者だったと思う。毎朝同じ時間に起きられるようになった今でも、それが彼のおかげだとは到底思えない。だが、会計窓口で三割負担の医療費を支払いながらいつも、腕のいい占い師にかかっているような気分だった。あるいは、いつ引いても絶対に「凶」だけは出ないおみくじ。自分のことは自分ではわからない。素直に他人に意見を仰ぎ、身を委ねるのが一番だなと、初めて思った。40度の熱を出しても、交通事故に遭っても、そんなふうに感じたことはなかった。

自覚と無自覚のあいだ

かつて私は健康優良児だったが、もはや健康は不断の努力で「維持」しなければ簡単に失われてしまうものとなってしまった。その「節目」が、心身の不調に悩まされながらビクビクしていた20代後半にあった。氷の入った冷たいドリンクを飲まなくなったのも、常温の水を1日2リットル飲むようになったのも、真夏でも靴下や腹巻を身につけてカイロの買い置きを欠かさなくなったのも、婦人科系疾患の大敵「冷え」への対策であるし、どうせ眠れないのだからと毎日のように夜遊びや暴飲暴食を繰り返していたのは20代半ばまで、時間帯で食べるものを節制して、主食を玄米に切り替え、カフェインや刺激物の摂取にも敏感になった。頭痛や腰痛を併発しないように寝具や照明にもお金を注ぎ込み、有酸素運動が大事と言われればフィットネスジムにも入会した。入会だけは、した。

そして、小児喘息で入院していたクラスメイトは、あんなに小さな子供の頃から、こんなふうに「健康」に気を遣っていたのだろうか、などと考えたりもした。新しくとる何気ない行動の一つ一つが、脆く壊れやすい自分の心身を損ねやしないかと、いちいち考えながら生きるのはどんな気分だろう。彼女の「節目」は私と違って、うんと早くに訪れたのだ。自分からみすみす健康を手放したがるやつがあるか。今ならその怒りに寄り添える気がする。一方で、私と彼女の歩んだ半生は、すでにしてずいぶん違ってしまっているよね、とも思う。

親元を離れて暮らすようになってから、久しぶりに親と会うたびに健康を心配され、いつも「あなたはもともと、小さい時から虚弱だったからねぇ」と言われる。言われるたびに驚く。彼らの思い出話の中の私は、季節ごとに高熱を出して寝込み、アトピーなど皮膚のトラブルが絶えず、少しの傷でも出血が止まらず、採血しただけで体調を崩し、何度も腎臓の精密検査を受け、運動が苦手で直射日光に弱い、そんな子供だというのだ。それでも私が「健康優良児」を自認して育ったのは、たまたま、子供のうちに大きな怪我や病気をせず、生死をさまようほどの経験をせずに済んでいたから。ただ、それだけのことなのだと、何度でも驚く。

憧れに憧れていた「手術」の初体験は32歳のとき、日帰りで受けた視力回復のレーシック手術だった。「入院」はまだしたことがない。できればこのまま、せずに生きていきたい。ようやくそう思うようになった。

<今回の住まい>
もともと根暗な性格で、外に出て遊ぶより室内で本を読むほうが好き、そんな人間が心身に不調を来たして引きこもりがちになると、快活な人々より症状の発見が遅れることがあるのかもしれない。26歳のとき引っ越した先は、小さな中庭に面した一階で、縦に細長い間取りの1Kだった。日中でもほとんど陽が射さず、電気を点けてもつねに薄暗いこの部屋を「穴倉みたいで落ち着くし、家具が置きやすいし、何より蔵書が日に灼けないのがいい!」と大変気に入って選んだ。もしタイムマシンがあったら契約の前日に乗り込んで、当時の自分にもう一度、熟考を促したい。どんな性格の人間だろうと、お日様の光は、とても大切です。


岡田育
1980年東京生まれ。編集者、文筆家。老舗出版社で婦人雑誌や文芸書の編集に携わり、退社後はWEB媒体を中心にエッセイの執筆を始める。著作に『ハジの多い人生』『嫁へ行くつもりじゃなかった』、連載に「天国飯と地獄耳」ほか。紙媒体とインターネットをこよなく愛する文化系WEB女子。CX系の情報番組『とくダネ!』コメンテーターも務める。

イラスト: 安海