FXの大相場の数々を目撃してきたマネックス証券、マネックス・ユニバーシティ FX学長の吉田恒氏がお届けする「そうだったのか! FX大相場の真実」。今回は「ITバブル時の世界経済」を解説します。

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1998年の金融危機から一変した世界経済

「グッド・モーニングなんて言う気になれない」、当時のグリーンスパンFRB議長にそう言わせるほど、1998年10月当時は世界的な金融危機への懸念が拡大していました。こういった中で、「米経済だけが繁栄のオアシスでいられるだろうか?」とグリーンスパンFRB議長が述べたくらい好調だった米経済でしたが、海外発の混乱の波及を阻止するべく「保険的」として、9~11月にかけて3カ月連続で利下げを行ったのです。

「FED(FRBの略称)エクスプレス」、英FT紙が世界的な物流会社の名前をもじって、そんな見出しをつけたFRBによる電光石火の動きが奏功し、株価暴落は一段落。それどころか、反発に転じると、あっという間に暴落が始まる前に記録した最高値を更新するところとなったのです。

  • 【図表】NYダウの推移(1998~2002年)(出所:リフィニティブ・データよりマネックス証券が作成)

    【図表】NYダウの推移(1998~2002年)(出所:リフィニティブ・データよりマネックス証券が作成)

そして、そんな株価の急反発の主導役こそがIT銘柄のウエイトが大きいナスダック指数でした。ちなみに、NYダウは1998年9月の安値である7,000ドル台から、2000年1月には1万2,000ドル近くまで約5割上昇したのですが、ナスダック指数は、ほぼ同じ期間に何と3倍近くになったのです。

何と言っても、史上初の2,000ポイント突破から、たった1年程度で5,000ポイント突破に向かったのですから、その勢いの凄さがよく分かるでしょう。突如襲った世界的な金融危機。ところが、今度は一転して「ニューエコノミー」の主役、IT株が主導する世界的な株高が急拡大する。こんなふうに書くと、この1998年から1999年にかけては、世界経済が目まぐるしい勢いで右往左往したことがよく分かる気がします。

こういった中で、当時の日本はどうだったのでしょうか。当時、日本では大手の証券会社や銀行が相次ぎ破綻するなど金融機関の経営不安が広がっていました。それに加えて、1998年の年末にかけて新たに浮上したのが国債価格の急落、国債利回り(長期金利)急騰といった問題だったのです。

日本の長期金利急騰のきっかけとされたことはいくつかあったのですが、今から振り返ると、ITバブルの株高が日本にも波及し、「株高→金利上昇」圧力となっていたということが基本だったようにも思います。

それはともかく、長期金利とは国債の利回りです。長期金利の上昇は、国債価格の下落という意味になります。「止まらない金利上昇=止まらない国債価格の下落」、それは国債を大量に保有する金融機関にとって新たに重大な問題となり始めたのでした。

長期金利上昇に歯止めをかけなければ、金融機関の経営破綻が一段と加速しかねません。でも、どうしたら良いのか? こういった中で1999年2月、日銀が出した答えが、先進国史上初のゼロ金利政策の採用でした。政策金利を下げることを利下げといいますが、その政策金利を実質的にゼロまで引き下げる、「究極の利下げ」です。止まらない狂った金利上昇は、この日銀による「究極の利下げ」決定により、ついに止まりました。

世界的な金融危機を、FRBの電光石火の利下げなどでシャットアウトし、それどころか一転してITバブルの株高に急転換したこと、そして日本ではゼロ金利政策といった「究極の利下げ」が行われたこと。これらが米ドル高と円安を後押しし、米ドル/円は1米ドル=110円程度から120円台半ばまで反発しました。

ただ、1999年、ITバブルの株高がクライマックスに向かう途中、米ドル/円はそれに追随することを止めて、急落が再燃するところとなりました。そんなITバブル下の円高局面に登場するのが、黒田「日銀総裁」ならぬ、黒田「財務官」だったのです。