FXの大相場の数々を目撃してきたマネックス証券、マネックス・ユニバーシティ FX学長の吉田恒氏がお届けする「そうだったのか! FX大相場の真実」。今回は「ITバブルでの円高の様子」を解説します。

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  • ITバブルで起こった円高の様子を解説

    ITバブルで起こった円高の様子を解説

今から振り返ると、1999年は、米ナスダック指数が1年で3倍近くにもなるなど、ITバブルの株高がクライマックスに向かった年でした。そんな株価と為替が袂を分かち、米ドル/円が下落に向かい始めたのは6月に入ってからでした。

きっかけは、日本の景気指標発表でした。6月初めに発表された日本の1999年第1四半期経済成長率は、「どうせダメだろう」みたいな諦めムード満載だったところが、驚くほど良い数字、「ポジティブ・サプライズ」となったのです。

この頃の日本経済は、低迷が長期化する中で大手金融機関の経営破綻が相次ぎ、いよいよデフレへの転落が始まりそうになるなどダメダメでした。1998年にかけて1米ドル=150円近くまで米ドル高・円安となったのも、日本経済を見限り資本が流出を始めている、いわゆる「悪い円安」との見方もあったのです。

ところが、「そうでもないよ」というような経済成長率の「ポジティブ・サプライズ」。これは、行き過ぎた日本経済悲観論修正のきっかけとなりました。この結果、海外投資家による日本株投資が拡大し、それに伴う円買いが円高をもたらすことになったとされたのです。

  • 【図表】米ドル/円の月足チャート(1998~2002年)(出所:マネックス・トレーダーFX)

    【図表】米ドル/円の月足チャート(1998~2002年)(出所:マネックス・トレーダーFX)

「ミスター円」財務官交代を機に加速した円高

ところが、ここで少し「おやっ」と思うことがありました。1米ドル=125円程度から米ドル安・円高に向かい始めると、日本の通貨当局の大蔵省(現財務省)は、早々と120円前後から円高阻止の米ドル買い・円売り介入に出動したのです。

いくらなんでも、ちょっと早過ぎるんじゃないか、そう感じさせる円売り介入でした。しかしそれについては、せっかく日本経済に改善の兆しが出てきたところで、早過ぎる円高によってそれが台無しにならないような「予防的」介入との説明が基本でした。

それにしても、上述のように日本からの資本流出に伴う「悪い円安」も気にし始めていたことからすると、日本に資本が回帰することに伴う円高は、基本的には「良い円高」のように感じますが、それに対しても早めにブレーキを踏んでくると思いました。

ところで、そんな「予防的」円売り介入を指揮したのは「ミスター円」でした。あの「超円高」からの脱出劇でヒーローとなった異色の大蔵官僚榊原英資氏は、通貨政策の事務方ナンバー2の国際金融局長(現国際局長)から、この頃にはナンバー1の財務官となっていました。そんな「ミスター円」財務官が、予防的介入を指揮したのです。

「ちょっと早過ぎるんじゃないか」、為替市場にそんな戸惑いもある中で、それでもさすがに「ミスター円」の神通力か、榊原財務官が指揮をとっている間は、米ドル安・円高も足踏みを続けました。しかし、大蔵省の既定路線だったのでしょうが、間もなく榊原財務官は勇退、そして後任の財務官になったのが黒田東彦氏だったのです。

あのアベノミクスの株高・円安相場では、日銀総裁としてまさに主役を演じることになる黒田氏ですが、この1999年当時の感覚では、世界の金融市場において、「ミスター円」のほうが断然「大物」扱いでした。それをまざまざと示したかのように、「ミスター円」が退場し、円売り介入の指揮官が黒田氏に交代すると、介入はあたかも弾き飛ばされるように、米ドル安・円高が止まらなくなっていったのです。財務官が後退してから2カ月もしないうちに、米ドル/円は110円を割れるところとなったのです。

やはり、「ミスター円」以外に円高は止められないのか、またまた1米ドル=100円を超えた円高、「超円高」が再来するのか。黒田「日銀総裁」ではなく、この当時は黒田「財務官」だったわけですが、このピンチをどう乗り切ったか。

異色官僚とされた「ミスター円」榊原氏に対し、黒田氏は大蔵省の本流中の本流とされてきた人でした。その意味では、このピンチでの対応も、いかにも「大蔵省のエース」黒田氏らしい、いかにもスマートなものになったのです。