第3話も、鬼塚語録が多く見られた回だった。「みんな俺がここに存在しないって思いたいなら勝手にしろ」「ただな、歩夢は琴音のことが本当に好きなんだよ。勇気を出して自分のでっかい夢を伝えたいだけなんだよ」「そんなあいつの熱い想いをバカにして、人を傷つける人間を、俺は絶対許さないからな」
そして、「みんな俺がここに存在しないって思いたいなら勝手にしろ」「ただな、歩夢は琴音のことが本当に好きなんだよ。勇気を出して自分のでっかい夢を伝えたいだけなんだよ」「そんなあいつの熱い想いをバカにして、人を傷つける人間を、俺は絶対許さないからな」
歩夢が国連事務総長の夢を諦めると言った時もそうだ。「お前が人に優しいのも分かったし、ちゃんと物事考えるのも分かった。でもそんなお前が、自分に冷たくしてどうするんだよ! 自分に期待しなくてどうするんだよ!」と語っていた。
正直に言えば、今の時代、ここまで真正面から理想や愛、夢を語れる大人はそう多くない。
SNSでは、一歩踏み込んだ言葉は「暑苦しい」「きれいごと」と冷笑される。何かを本気で好きだと言えば「痛い」と笑われ、夢を語れば現実を見ろと言われる。失敗すれば瞬く間に拡散され、炎上する。だから私たちは、傷つかないために本音を隠し、期待しないことを覚え、空気を読み、あらかじめ一歩引いた場所から物事を見るようになった。
社会学者の大澤真幸氏は、現代社会を「不可能性の時代」と表現した。何かを信じる前に「どうせ無理だ」と考え、熱狂する前に距離を置き、傷つく前に自分を守る。そんな価値観は、SNS時代を経てさらに強まっているようにも思える。
だからこそ、鬼塚の言葉は現実離れして聞こえる。
しかし、それは鬼塚が「普通の大人」ではないからだ。元暴走族という肩書き以上に、鬼塚は他人の評価や世間体より、自分が正しいと信じたことを貫く人物である。空気を読むのではなく、人を見る。損得ではなく、心で動く。そして、自分が笑われることも否定されることも恐れず、本気で相手を信じ、本気で怒り、本気で褒める。
だから鬼塚の言葉は刺さる。
成熟した社会は、ときに冷笑を「知性」と取り違える
令和の生徒たちが求めているのは、完璧な大人ではない。自分も傷つくことを恐れず、真正面から「お前には価値がある」と言い切ってくれる大人なのではないだろうか。
鬼塚が時代遅れなのではない。その熱さを真正面から語れる大人が、社会から少しずつ姿を消してしまったのである。
鬼塚の言葉は、令和の感覚からすれば、どこか青臭く、気恥ずかしい。それを笑うことは簡単だ。冷静でいることも、距離を置くことも、皮肉を口にすることも、この時代ではある種の「賢さ」として機能してきた。
しかし、その賢さの先に残るものは、本当に人を救えるのだろうか。
歩夢の告白も、国連事務総長という夢も、鬼塚の熱い言葉も、冷笑することはたやすい。だが、『GTO』が描こうとしているのは、その一歩手前で踏みとどまる勇気である。笑われるかもしれない。それでも、自分の想いを口にする。誰かを信じる。誰かを本気で応援する。その愚直さこそ人を変える力になるのだと、このドラマは(フィクションがゆえに)、信じ続けている。それこそ、“愚直”なまでに…。
成熟した社会は、ときに冷笑を「知性」と取り違える。
しかし、本当に知的であるとは、何も信じないことではない。現実の複雑さを知ったうえで、それでもなお誰かを信じ、言葉を届けようとすることなのではないかと筆者は思う。
つまり『GTO』が令和に投げかけているのは、学校へのメッセージだけではない。私たちは、笑われることを恐れず、もう一度「青臭い正しさ」を語れる社会であり続けられるのか。鬼塚が本当に試しているのは、生徒たちではなく、その言葉を受け取る私たち自身…なのかもしれない。










