2番目に注目されたのは20時11分で、注目度72.4%。蔦重と長谷川平蔵宣以(中村隼人)が再会するシーンだ。

土山宗次郎(栁俊太郎)とつながりを作るため、平蔵は佐野政言(矢本悠馬)ら同僚を引き連れ、土山邸・酔月楼を訪れていた。政言は旗本の身分には相応しくない土山邸の様子に息をのむ。来客が多く、とても宗次郎には近づけそうにないのだ。平蔵が辺りを見回すと、和泉屋と話をしている蔦重を見つけた。

平蔵は事情を話し、3名の同僚たちを宗次郎に引き合わせたいと依頼すると、蔦重は快諾し宗次郎のもとへ皆を案内した。蔦重の姿をみとめた宗次郎は軽口を叩いていたが、やがて後ろの平蔵たちに気付く。蔦重が平蔵を紹介すると、続いて政言が名乗るが、その言葉が終わらないうちに大田南畝(桐谷健太)が平蔵に飛びついた。若かりし平蔵がかつて吉原で派手に遊んでいたのを南畝も耳にしていたようだ。

狂歌を始めようとしていた平蔵は、狂歌の第一人者ともいえる南畝に狂歌名を名付けてほしいと依頼すると、「では、稀代のモテ男、在原業平にちなんであり金はなき平で」と南畝は命名した。「金はなくともモテると」平蔵がいつもの決め顔で返す。その滑稽なやり取りに辺りが笑いで包まれた。

平蔵の同僚である横山、縦川もあとに続くが、家柄のよい政言はひとり、その場になじめずにいた。輪に入れずにいる政言に蔦重は助け舟を出したが、奥手な政言は「親の具合もようないので、長居できぬしな、では」と言い残し去ってしまった。

「平蔵、相変わらずパリピだな」

このシーンは、愛されキャラである平蔵の再登場に視聴者の関心が集まったと考えられる。

進物番士として勤めている平蔵だが、座頭金の一件以来、田沼意次(渡辺謙)とは疎遠になってしまっているようだ。勢いのある宗次郎に近づこうと『はまのきさご』を片手に狂歌の勉強に励んでいるあたり、抜け目のなさは健在のようである。偶然再会した蔦重を通して宗次郎と出会うことがかない、さらに大田南畝(桐谷健太)に「あり金はなき平」という狂歌名を付けてもらって上機嫌な平蔵は、「カモ平、過去の失敗体験もこういう立ち回りにいかしてるの抜け目ないな」「大田先生も知ってるくらい伝説になってる男カモ平! 赤スパチャはすごかったもんね」「平蔵、相変わらずパリピだな」と、SNSでもその人気ぶりがうかがえる。

以前と変わらずモテたがりの平蔵だが、史実では38歳になっており、妻もいれば12歳の息子もいる。火付盗賊改方となり「鬼の平蔵」と呼ばれるのはもう少し先のことだ。

そして控えめな性格が目立つ政言だが、10人姉弟の末子で一人息子だった。史実では1783年時点で新番士を務めているが、新番士は平蔵の務める進物番士とは違い、出世の道は限られていた。政言が意次に近づこうとしたのも出世への足掛かりをつかむためだろう。しかしこれが政言の運命を狂わせるきっかけとなるのは皮肉としかいいようがない。

土山宗次郎は、老中・田沼意次の下で活躍した幕臣であり、勘定組頭を務めた人物。勘定組頭は勘定奉行の指揮のもとで、幕府の財政管理や農政、さらには地方の監査や復旧事業の検分などを行う上級役人だ。1672(寛文12)年には定員は12名で、江戸城内の担当者2名、残りは上方や関東の担当に分かれていた。享保年間には制度改革が行われ、地域別から職務別の分担に変わる。宗次郎の父・孝祖も勘定組頭を務めていた。

宗次郎は田沼意次の商業奨励政策を現場で支えたキーマンの一人であり、幕府の財政実務を担い、江戸の治水や開発、全国の年貢管理、商業振興など、多岐にわたる重要な案件を担当する。ロシアの南下政策を警戒していた幕府にとって戦略的に重要な土地であった蝦夷地の開発政策にも積極的に関わった。工藤平助の『赤蝦夷風説考』を読んでロシア対策の必要性を提言し、平秩東作らを蝦夷地調査に派遣するなど、調査や資源開発、通商の可能性などを多角的に検討し、国家事業の推進に尽力した。幕臣としての顔だけでなく、文化人としての側面も持ち合わせていた。

吉原遊郭での派手な遊興や、大田南畝のパトロンとしても知られ、数多くの文人が土山邸に出入りしていたといわれている。南畝が松葉屋の女郎・三保崎を身請けした際はその身請け代を肩代わりしたともいわれている。