注目を集めるテレビ番組のディレクター、プロデューサー、放送作家、脚本家たちを、プロフェッショナルとしての尊敬の念を込めて“テレビ屋”と呼び、作り手の素顔を通して、番組の面白さを探っていく連載インタビュー「テレビ屋の声」。今回の“テレビ屋”は、日本テレビの『電波少年』シリーズなどで知られる土屋敏男氏だ。

松村邦洋が「渋谷のチーマーを更生させたい」とその集団に飛び込み、松本明子が「アラファト議長とデュエットしたい」と異国の地で突撃するなど、「アポなし企画」で攻めに攻めていた『電波少年』を作っていた立場から、「コンプライアンス」が叫ばれる今のテレビをどう見ているのか。そのテレビマン人生の原点をひも解くとともに、今年9月で日テレを退社して新たなスタートを切った中での今後の展望など、たっぷりと話を聞いた――。

  • 土屋敏男氏

    土屋敏男
    1956年生まれ、静岡県出身。一橋大学卒業後、79年日本テレビ放送網に入社し、『酒井広のうわさのスタジオ』『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』『とんねるずの生でダラダラいかせて!!』『進め!電波少年』『ウンナン世界征服宣言』『ウッチャンナンチャンのウリナリ!!』などを制作。編成部長、第2日本テレビ事業本部ED、編成局専門局長、ゼネラルプロデューサー、日テレラボ シニアクリエイターなどを歴任し、22年9月で同局を退社。ゴンテンツ合同会社を設立し、日本テレビ、WOWOW、ひまわりネットワークのアドバイザーも務める。

■学園祭の「クラブ対抗歌合戦」が原点に

――当連載に前回登場したNHK Eテレ『100分de名著』の秋満吉彦プロデューサーが、「『電波少年』では猿岩石の『ユーラシア大陸横断ヒッチハイク』『なすびの懸賞生活』など、すごくよく覚えています。『電波少年』は、ジャンルとしては「バラエティ番組」なんでしょうけど、僕は、“新しい形のドキュメンタリー”だと当時思っていました。“リアリティショー”という言葉は今でこそ定着して、ありふれた手法となっていますが、当時の日本では誰も試みていなかったのではないでしょうか」とおっしゃっていました。

ありがとうございます。放送文化基金賞の選考委員をやったんですけど、『100分de名著』を見て、「これは面白い!」って一番高い点を付けさせていただいたんですよ。勝手にご縁を感じちゃいましたね。

――そもそも、テレビ業界を目指したのはどういう経緯だったのですか?

大学生の時に、学園祭のコンサート企画みたいなことをやってたんですけど、それまではパッケージでプロに来てもらってチケットを売るというやり方だったんですよ。でも、それじゃちょっとつまんないなと思って。学園祭のときって、一般の学生は休みだと思ってるから、旅行に行ったり実家に帰ったりするんですけど、それは学園祭としてどうなのかなと思って、真面目に“学生による学生のためのコンサート”ってできないかなと「クラブ対抗歌合戦」というのを考えたんです。

僕のいた一橋(大学)って百何十年みたいな歴史がある大学だから、応援部に代々伝わる春歌とか、そういう旧制高校的な伝統があったりするんですよ。そういう外に出ないのも含めてそれぞれのクラブが披露して、どこが一番面白いかみたいなのをやったらいいんじゃないかと。スポンサー集めて優勝賞金10万円にしたら、そりゃもう大金だから、テニスサークルの男子学生がスコートはいてラインダンスしたり、みんな頑張ってやるわけですよ。第1回で素人がやってるから、次の出番のやつが袖に来てないとかバタバタになって走り回ってたんですけど、一番前の客席で見ていた友達に「土屋、ウケてるな」って言われて。それで、兼松講堂っていう1,600人くらい入る講堂で、ドーンってウケて、客席が波打ってる画が見えたんです。これにゾワッとして、「人を楽しませる仕事って楽しい」と思っちゃったんですよね。大学3年で、人を楽しませる仕事って何があるんだろうと思ったら、当時はテレビだった。それで各局を受けて、第一志望でもあったんだけど、日本テレビが受かったんで入りました。

――なぜ日テレが第一志望だったのですか?

当時は大学4年が就活で、11月に試験とかやるんですよ。それに向けて対策をするためにテレビを買って見てたら、『24時間テレビ』の1回目をやっていたんです。当時の感覚でいうと、スペシャル番組でもせいぜい2時間だったから、新聞のラテ欄がドーンと24時間1つの番組っていうのに度肝を抜かれて、「何だこれ!?」と思って。それで見てみたら、1回目だからもうむちゃくちゃで、募金もどうやって集めるかちゃんと決まってなくて、そのうちコーラの1リットル瓶に入れて持ってきてという話になって。

――生放送中にだんだん決まっていくんですか(笑)

そうそう(笑)。いろんなことがどんどん出来上がっていく感じで、原宿から代々木公園をパレードするんだけど、欽ちゃん(萩本欽一)とか大竹しのぶさんとかタモリさんが乗ってるトラックに、お金が入ったコーラの瓶が投げ込まれて、警備もいないからトラックによじ登ろうとする人もいて、もう危なくてしょうがない(笑)。代々木公園に着いたらもう人が押しよせてグチャグチャになって、生放送であの温厚な欽ちゃんが「お前ら押すなー!!」って怒鳴ったり、「この子のお父さんかお母さんいませんか?」って迷子探しやったりして、テレビって面白いなって思ったんですよね。

それで、日本テレビの入社面接を受けるんだけど、20くらいテーブルがあって、後で聞くと、たまたま僕が行ったところの面接官に、『24時間テレビ』の事務局長がいたんですって。そこで、『24時間テレビ』を見た興奮を熱く語ったもんだから、その人がエラい気に入ってくれて、学科試験はボロボロだったんだけど、「あいつ面白いから入れてやれ」と言ってくれたみたいです。

■ADがBB弾で撃たれてる会社へ

――第一志望の局に入社できましたが、最初の配属はバラエティ制作じゃなかったんですよね。

編成部の配属になったんですけど制作に行きたいから、企画書の募集もしてないのに、毎週1本企画書書いて制作に持っていくっていうのを2年半くらい続けて、百数十本出してようやくパイロット(トライアル)番組として制作できる3本の1本に入ったんです。結局その番組はレギュラーにならなかったんだけど、これがきっかけで制作に異動できました。

――どんな企画だったのですか?

『クイズ明るい家庭』っていう番組なんですけど、スタジオの真ん中に子宮みたいなセットを作って、そこに卵子、つまり子どもの種となる人が、それぞれ得意なジャンルがあって100人くらいいるんです。で、クイズに答えて正解すると性行為したことになって、そこから子どもが授けられる。だから、子どもが増えていくとだんだん有利になっていくというクイズ番組です。

――またすごい企画が通りましたね(笑)

このディレクターをやってくれたのが、後に日本テレビの社長になり、副会長にもなった小杉善信さんで、入社3年目の時から付き合いが始まるんです。

――制作に異動できたものの、配属されたのはワイドショーだったんですよね。

『24時間テレビ』とか『アメリカ横断ウルトラクイズ』とかやりたかったんですけど、行った先は『酒井広のうわさのスタジオ』という番組。当時は梨元(勝)さんとかがいて芸能ネタもやるんですけど、文春が「ロス疑惑」を報じて、ワイドショーもそういうネタをやり始めた頃だったんです。で、アメリカのカーター大統領が来日して、明治神宮で流鏑馬を見るというときに僕が担当で行ったら、取材スペースの最前列には報道がいて、ワイドショーは結構後ろの列。その前に線が引いてあって、カメラマンに「ちょっと5cm出てみよう」って言って出ても気づかれないから、10cm、20cmってどんどん出ていったんですけど、30cm出たところで警備の警察官に「そこ出ないで!」って怒られたんです。その光景が面白くて、「あ、怒られるテレビって面白いな」と思ったんですよ。

これが後に『電波少年』をやるときにつながって、怒られるにはどうすればいいんだろうと考えて、「アポなし」というのを思いついたんです。でも、ただ怒られに行くのは意味がないから、「大臣のイスに座りたい」とか考えて、でも結局松村(邦洋)とあっこ(松本明子)が怒られて帰ってくることになって。だから不思議ですよね、嫌々やっていたワイドショーが、自分がオリジナルの企画を考えるときのヒントになるんですから。

――ワイドショーはどれくらい担当されたのですか?

2年半くらいですね。その頃は番組の仕事でいっぱいいっぱいで企画書を出す暇がなかったんですけど、「お前もそろそろバラエティやってみるか」と言われて、『(天才・たけしの)元気が出るテレビ!!』が立ち上がるときに、ようやくバラエティに行けたんです。あの番組は(制作会社・)IVSテレビの制作で僕は20代のディレクターだったから、そこに出向みたいな形で行ったんですよ。ところが当時のIVSって荒くれ者の集まりで、ADがBB弾で撃たれてるみたいなすごい会社で(笑)

――エラいところに来てしまった(笑)

そこで、(総合演出のテリー)伊藤さんに師事して、鍛えられましたね。

テリー伊藤

――テリーさんからはどういう教えがあったのですか?

いや、全然何も言ってくれないですよ(笑)。やっぱりこういうのって盗むものなんですよね。その後に欽ちゃんと一緒に仕事をして、僕はこの2人が師匠だと言ってるんですけど、伊藤さんの要素と、欽ちゃんの要素を盗んでくることによって、自分の持ってるものと合わせて斑(まだら)になって、それがオリジナルになっていくと思うんです。なおかつ、伊藤さんと欽ちゃんで同じところがあったら、それが基本なんだと分かるじゃないですか。僕はよく「師匠は2人持て」と言うんだけど、やっぱり1人だと「ミニ◯◯」になっちゃうから、あんまりよくないですよね。だから、古立(善之、『世界の果てまでイッテQ!』など演出)は、ずっと長いこと『電波少年』をやってたから、「五味(一男、『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』『マジカル頭脳パワー!!』など演出)のとこ入れてもらえよ」って言って、『エンタの神様』をやったんじゃないかな。「インタビュー受けるときは、『師匠は土屋だけです』って言えよ」ってくぎを刺しながらね(笑)

■台本も構成表も出さずに「人間水車」敢行

――入社のきっかけになった『24時間テレビ』は、どのように携わっていたのですか?

1年目は自分で立候補して、「ヤングチャリティーボランティア」って、電話を受ける学生さんたちにお弁当を配ったり、苦情電話の受付みたいなのをやって、ワイドショー制作のときも事前番組で「1リットルのコーラの瓶に何円入る」とか、それが何本分で電動車いすとかお風呂つきバスになるって紹介するのをやってたんですけど、本編で本格的に制作として携わることになったのは、入社してずっと経って、91年に『24時間テレビ』がいわゆるモデルチェンジをしたんですけど、その後にやった深夜枠ですね。

当時、ウッチャンナンチャンの『世界征服宣言』って番組をやってて、内村(光良)がケチで人に金を貸したがらないから、「ウッチャンにお金を借りたい人」を一般募集して、100万円を何人かに貸して、それを『24時間テレビ』の本番でみんな返しに来るかっていう『走れメロス』みたいなことやったんです。それを待ちながら、芸能人同士は信じ合っているのかを検証するといって、出川哲朗を『スーパージョッキー』でやってた人間水車に張り付けて「お前は、あいつの秘密を知ってるだろ」と聞いて「言えない!」ってなると、人間水車を回して拷問するっていうのをやってました(笑)。それを生放送でやってたら、偉い人が来て「土屋、そろそろ止めたらどうだ? ものすごい数の抗議電話来てるぞ」って言われて。

『24時間テレビ』はそれまで全然呼ばれなかったんですけど、モデルチェンジしていろんな人間がいろんなことをやろうということになって、たしか総合演出の五味に頼まれたんじゃないかな。

――でも初期の深夜で、タモリさんと赤塚不二夫さんがSMショーをやったんですよね。

そうそう。その頃は日本青年館でやってて、僕も現場かOAで見て「すごいなあ」と思って、その企画をやった棚次隆さんという人に「あれ、どうやってやったんですか?」って聞いたんです。そしたら棚次さんは、総合演出の都築(忠彦)さんに「この2時間は棚次、おまえ頼むよ」って言われたんだけど、「何やるの?」と聞かれても、「いや、そのうち決めますから」って答え続けて、最後まで秘密のまま本番に入って、途中で妨害が入らないようにホールの鍵を全部かけてやったって話を聞いて。だから、「俺もそれやろう」と思って、五味に「何やるの?」と聞かれても、「いやあ、そのうちそのうち」とか言って、台本も構成表も出さないで人間水車をやったんです。それから、もうお呼びがかからなくなりました(笑)