「奇跡と偶然」

「主語が大きい/小さい」という言い方がある。「私は」と語り始めれば主語は小さく、「男性は」とか「人類は」となると主語は大きくなる。主語の大きさがよく取りざたされるようになったのは、世間に「大きな主語」で語られる言葉が増えたからなのではないだろうか。

主語の大きい小さいでいうのなら、『東京ゴッドファーザーズ』はとても「主語が小さい」映画だ。

  • イラスト:jimao

主人公たち3人はホームレスだが、この映画はホームレスの物語ではない。主語となるのは「ホームレス」ではなく、妻子を捨ててしまったギンちゃんであり、孤児育ちのオカマであるハナちゃんであり、父親を傷つけて家出をした高校生ミユキである。そんな3人がクリスマスイブの夜に、捨て子の赤ん坊を拾うことから物語は始まる。

舞台も同様だ。タイトルのとおり東京が舞台ではあるが、「東京」を象徴するようなランドマークは画面の奥に垣間見えるだけ。実景を参考に描かれた場所も出てはくるが、それ以上に、それらしく描かれた"どこでもないささやかな場所"のほうが多く登場する。3人のホームレスは、清子を親元に帰すために、そんな東京の片隅のささやかな場所を駆けずり回ることになる。だからこの映画を現実の「東京」とイコールで語るのは、実はなかなか難しい。

東京の名もない場所で、小さな個人の上に起こった不思議な出来事を描く。ギンちゃんも、ハナちゃんも、ミユキも、大きな主語に絡み取られそうな要素を持ちながら、それをひょいとかわして描かれる。それが「小さい主語」を選んだ『東京ゴッドファーザーズ』という映画なのである。

この主語の小ささを見ていると、小説家の重松清が書いたエッセイ「家族は『社会問題』か?」(『明日があるさ』所収)を思い出す。そのエッセイで重松は、「家族や子供、学校をテーマにした小説を描いている"社会派"」と呼ばれたことをきっかけに、戸惑い、そして、今は「家族・子供・学校の出来事が社会問題化」している時代だと思い至る。

ここで重松が感じたことは、現代が「小さい主語」がいつの間にか「大きい主語」に置き換えられてしまう時代と言い直すことができる。

「『私』の歪みを『公』のせいにして、『私』の救いを『公』に委ねると、けっきょくは、すべてが『家族』『子ども』『学校』という集合名詞になってしまい、ひとつひとつの家族の姿が、一人一人の子供の顔が、消えてしまう」(重松清「家族は『社会問題』か?」)。

重松の小説と『東京ゴッドファーザーズ』は、フィクションとしての肌触りはだいぶ性質が異なる。でも、そこに「小さな主語へのこだわり」という共通点があると考えると浮かび上がってくるものは確かにある。

重松は「小さな主語」を見つめることで、個人の中に反映された社会性を浮かび上がらせる。では『東京ゴッドファーザーズ』は「小さな主語」にこだわることで、何を描き出そうとしたのか。

今敏監督はプレスシートに『東京ゴッドファーザーズ』の狙いをこう記している。「これら科学の論理兵器によって異界へと押しやられた『奇跡と偶然』を健全に回復しようというのが本作の試みです」。

「奇跡と偶然」。それが『東京ゴッドファーザーズ』が描き出そうとしたことだ、

主語は小さくある必要があった

「奇跡と偶然」は、非常に個人的なものだ。奇跡や偶然と呼ばれる出来事は、ある人の身に起きたとしても、「なぜ起きたのか」を再現性をもって説明することはできない。だから普遍化も難しい。そういう極めて個人的な出来事だからこそ、奇跡であり偶然であるともいえる。

もし「奇跡と偶然」を普遍化しようと、大きな主語に結びつけたらどうなるだろうか。それはきっと、なにやら宗教めいて、とたんにうさんくさくなってしまう。そこでは個人的な体験であったはずの奇跡や偶然が消えてしまい、そのかわり「教祖と信者」といった(重松の書くところの)"集合名詞"の問題にすり替わってしまう。「奇跡と偶然」を"健全"に回復しようとするからこそ、主語は小さくある必要があったのだ。

個人的な奇跡を描くこと。それは神話……というより、民話の世界の再生でもある。その点についても今監督はずばりと書いている。

「基本的に神々に遭遇しうる人間というのは、度が過ぎた『無分別』がゆえである、と指摘しているのは『神道の逆襲』(菅野覚明/講談社現代親書)。この 『第四章 正直の頭(こうべ)に神やどる』で著者は、日本の昔話やそれらを考察した柳田国男の文章を引きつつ、こう結論づけている。『花咲爺さんや浦島太郎的な人物の共通点』として、『私たちが住むこちら側の日常世界』その『日常性を成り立たせている私たちの心意を"分別"と呼ぶならば、神に愛される者たちはまさに"無分別"と呼ばれるのがふさわしい』と。

私はこの『無分別』という考え方をすっかり気に入ってしまった。

『無分別』であるがゆえに異界へと踏み込む、という構図は、『この子は神様が私たちにくれたクリスマスプレゼント! 私たちの子供よ!』と叫んで捨て子を連れて帰るハナちゃんの行為に重なる気がした。」(『東京ゴッドファーザーズ雑考-決算2002より- 09』)。

大きな主語で語られる常識の世界。無分別な人物は、その枠を踏み越え、異界へと足を踏み入れてしまう。その異界は、小さな主語でしか語れない世界なのだ。『東京ゴッドファーザーズ』という作品が、ユニークな魅力を放つのは、一見リアリズムに則った作品のように見えながら、そのリアリズムをぬけぬけと利用して、「奇跡と偶然」が支配する異界を描いてしまった点にある。

この映画が公開された2003年は、SMAPの「世界に一つだけの花」がヒットを記録した年だった。この歌は、「小さな主語」に寄り添うように見えながら、実はそれを「一つだけの花」と「大きな主語」にまとめてしまう歌。だからこそポップスとしては正しく、ヒットするだけでなく今や老若男女がうたう歌として定着した。だが、今思い返してみれば、これは世間がどんどん「大きい主語」を誇らしげに使うようになっていく「その後の15年」の予兆だったのかもしれない。

『東京ゴッドファーザーズ』は、映画『素晴らしき哉、人生!』(1946年公開)に通じるようなクリスマス(と年末)の物語である。でも、今見直すと、その奇跡を支えた「小さな主語」のほうに目がいってしまう。「小さな主語」が愛おしく見えてしまう時代は、果たして幸福なのか不幸なのか。

藤津亮太(ふじつ・りょうた)。1968年、静岡県生まれ。2000年よりフリー。Blue-rayブックレット、各種雑誌、WEB媒体などで執筆する。著書に『チャンネルはいつもアニメ』(NTT出版)、『声優語』(一迅社)、『新聞に載った アニメレビュー』(Kindle同人誌)などがある。WEB連載は『アニメの門V』(アニメ!アニメ!)、『イマコレ!』’(ニジスタ)。毎月第3土曜には朝日カルチャーセンター新宿教室にて講座「アニメを読む」を実施中。

記事内イラスト担当:jimao
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