1991年(平成3年)3月から景気は後退局面に入り、1985年(昭和60年)に端を発するバブル経済は終わった。いわゆる"バブル崩壊"である。これは後に"失われた20年"と呼ばれる、低成長期の始まりでもあった。

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▼「ジャコウウシ」がやってくると変わるもの、それは

この時期、TVアニメでは、1992年(平成4年)4月から放送開始した『美少女戦士セーラームーン』と『クレヨンしんちゃん』が大ヒットを記録した。『セーラームーン』は「かわいい」と「かっこいい」を積極的に融合させ多くのファンを魅了した。さらにこの大ヒットは、やがて1995年の『新世紀エヴァンゲリオン』のヒットへとつながり、1977年~1984年のアニメブーム以来となる、90年代の"アニメブーム"の起点ともなった。一方、『クレヨンしんちゃん』は"大人をおちょくる子供"という定番の存在を、耳に残る個性的な的なセリフで個性づけて、現在も放送が続く長寿作となった。

だが今回取り上げる作品はこの2作品ではない。今回取り上げるのは、両作がまだヒットを続ける翌1993年11月に公開された、映画『ぼのぼの』だ。

同作は1986年から連載されたいがらしみきおによる4コマ漫画が原作。もともと過激なギャグで知られるいがらしが、2年間の休養の後に発表したのが『ぼのぼの』だった。『ぼのぼの』は、かわいらしい動物キャラクターによるほのぼのとしたギャグと、哲学的ともいえる"素朴な子供の視点"が印象に残る作品で、幅広い層の人気を獲得した。

初の映像化となる映画では、原作者のいがらしみきお自身が監督・脚本・絵コンテを務め、原作のかわいらしさと思索的な要素がしっかりと盛り込んだ。ちなみにアニメーション監督は、後に『クレヨンしんちゃん』の監督になる武藤裕治=ムトウユージ。 

主人公のぼのぼのは、ラッコの男の子。おとなしいシマリスくん、乱暴ものなどのアライグマくんが彼の友達だ。ぼのぼのの住む森には彼らのほかにも、さまざまな動物たちが住んでいる。

映画は、ぼのぼのとシマリスくんが遊んでいるところに、アライグマくんがやってくるところから始まる。アライグマくんは、見たこともないぐらいでっかい生き物がこの森に向かっているというのだ。。そういわれてもピンとこないぼのぼのとシマリスくん。いつものように2人に怒り出したアライグマくんは、2人を連れて、そのでっかい生き物を探しに行くことにする。

一方、森の大人たちも、でっかい生き物がやってくることを既に知っていた。そのでっかい生き物は数年前にも森にやってきて、森の"何か"を変えてしまった。今度も何かが変わるのか……。森のリーダー的存在でもあるヒグマの大将はでっかい生き物の接近を警戒する。

このでっかい生き物の名前は、ジャコウウシ。森の中をただ進んでいくだけのこのジャコウウシについて、作中では「それが通ると何かが変わる」と言及されている。これはつまり、ジャコウウシとは"時間"なのではないか。それも時計で計測されるような"時間"ではなく、不可逆な変化が起きてしまうことによってしか確認されない時間。

▼「楽しいことはどうして終わるのか」というぼのぼのの疑問

ぼのぼのの世界は、原則として大きな時間の経過が描かれることはない。朝が来て夜が来るが、そうした時間が積み重なってぼのぼのが成長することはない。過去が回想されることはあっても(映画の中にも何度も回想が出てくる)、"現在"が"過去"になることはない。

そんな作品の決まりごとを守りながら、時間の流れを表現しようとして描かれたのが、ジャコウウシだと考えるといろいろ腑に落ちる。たとえば、ぼのぼのの森の仲間たちは言葉でコミュニケーションを取り合っているが、ジャコウウシはそういうコミュニケーションの対象になっていない。ぼのぼのたちとは同列の存在ではないのだ。

映画のクライマックスでは、動物たちの目の前をジャコウウシがゆっくりと歩いていく。この時、ヒグマの大将の子供、コヒグマくんがその前に飛び出してしまう。ヒグマの大将は、あわててジャコウウシの前に立ちふさがる。しかし、一瞬の間の後、ヒグマの大将はそこをどいて、ジャコウウシをそのまま通す。

ジャコウウシは何事もなかったように歩いていき、コヒグマくんは運良くジャコウウシに踏み潰されることはなかった。ヒグマの大将は、コヒグマくんの運を天に任せたのだ。なぜなら時間の流れというのは生き物にはどうしようもない不可逆なものなのだからだ。

そして、このクライマックスのエピソードと呼応するように、ぼのぼのは映画の冒頭から"時間"について考えている。ぼのぼのが考えているのは、「楽しいことはどうして終わっちゃうんだろう」ということだ。

先のコヒグマくんの事件が終わった後、ぼのぼのは、スナドリネコさんにこの疑問を投げかける。スナドリネコさんは、前回ジャコウウシが通った数年前に森にやってきて、ぼのぼのがなついている大人のひとりだ。

スナドリネコは、ぼのぼのと会話しながら次のように説明する。

まず、楽しいことが終わってしまうのは、つらいことも必ず終わるから。そして、どちらも終わってしまうのは、生き物はそういう目的のために生きているわけではないから。

では、生き物はなんのために生きているかというと、「見る」ためではないか、とスナドリネコはいう。そして「見ているだけ」では退屈してしまうから、楽しいことやつらいことがあるのではないか、という。

何を「見る」のか。それはつまり流れていく時間ではないか。これはつまり、コヒグマくんを助けなかったヒグマの大将の行動であり、あの時、森の仲間がジャコウウシを"見る"ために集まっていたこととつながっている(なお、何が不可逆に変化したかは観客に委ねられている)。

時は流れていき、生き物は見るだけで、そこに手を下すことはできない。そんな時の流れという大枠の中で、楽しいこととつらいことが始まったり終わったりしている。実際この映画の大半は、ぼのぼのたちの楽しい日常の様子で占められており、"つらいこと"の片鱗としてシマリスくんのお父さんが倒れるという小事件が挿入されている。

時間の寓話としてのこの映画の魅力は、四半世紀を経た今でも色褪せてはいない。ただ現時点から振り返ると、「何かが通り過ぎ、何かが不可逆に変わってしまう」という主題と、そのころの日本の様子が妙に重なって見えてしまうのも事実だ。

日本はおそらく1991年になにかが通り過ぎ、何かが変わってしまったのだ。ジャコウウシの歩みと違い、これはきっと人間の力でどうにかできたはずの変化のはずなのに、結果として何もできないに等しかった。そして「閉塞感」と「癒やし」が時代のキーワードとなる時代がやってくる。そういう気分で映画『ぼのぼの』を再見すると、ぼのぼのたちの無邪気さが一層胸にしみる。

藤津亮太(ふじつ・りょうた)。1968年、静岡県生まれ。2000年よりフリー。Blue-rayブックレット、各種雑誌、WEB媒体などで執筆する。著書に『チャンネルはいつもアニメ』(NTT出版)、『声優語』(一迅社)、『新聞に載った アニメレビュー』(Kindle同人誌)などがある。WEB連載は『アニメの門V』(アニメ!アニメ!)、『イマコレ!』’(ニジスタ)。毎月第3土曜には朝日カルチャーセンター新宿教室にて講座「アニメを読む」を実施中。

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