今回は、1585(天正13)年の様子が描かれた。以下で、最も注目されたシーン以外の見どころを紹介していく。
まずは秀吉が関白となるため、近衛家前当主・龍山の猶子になったシーンが挙げられる。秀長たちが四国攻めに頭を悩ませている頃、秀吉は妙顕寺城を訪れていた。そこでかつて関白だった龍山と面会する。秀吉の狙いは、五摂家の養子となり関白となること。龍山ははじめ、秀吉の申し出に難色を示す。
しかし秀吉は現状のままでは龍山の嫡男・近衛信輔が関白になる機会を失うこと、莫大な金を使い、すでに公家だけでなく帝の信任も得ていることを力説すると、龍山は秀吉と手を組むことを受け入れた。同時に己の力でのし上がった秀吉がうらやましいと心中を吐露する。
SNSでは「やはりいつの時代も金だね。金は全てを解決する!」「武家と公家のトップ同士でも隣の芝が青々と茂っているように見えるんだな」と、いびつな関係の2人にコメントが集まった。
近衛龍山は戦国時代の五摂家筆頭・近衛家の当主。近衛家は関白や摂政を輩出する朝廷屈指の名門だった。龍山は1536(天文5)年に生まれ、1554(天文23)年にわずか18歳で朝廷の最高級官職に就く。しかし龍山は京の朝廷だけに埋もれるような人物ではなかった。1559(永禄2)年に上洛した長尾景虎、後の上杉謙信と親交を深め、その翌年には越後へ下向した。その後、謙信の関東出兵にも同行している。
しかし、1565(永禄8)年に起きた永禄の変で第13代将軍・足利義輝が死亡すると足利義栄の将軍就任を支持したことで足利義昭(尾上右近)を擁立する織田信長と対立することになり、一時的に京を離れることになった。しかし1573(天正元)年、信長が義昭を追放したため京に戻ることを許された。
龍山は公家らしく和歌や書に秀でていたが、乗馬や鷹狩りも一流で『龍山公鷹百首』という鷹の種類や扱い方、鷹狩の方法、鷹匠、狩場、道具など、鷹狩に関する知識をまとめた歌集を執筆している。さらに秀吉や徳川家康に写本を与えたと伝わっている。
ちなみに嫡男・近衛信輔は龍山の執念が実を結び、1605(慶長10)年に悲願だった関白に就任した。今回、龍山の猶子となった秀吉だが、『義昭興廃記』には、1585(天正13)年頃、秀吉が義昭の養子となり征夷大将軍になることを望んだものの、義昭に拒絶されたという逸話が記されている。
蜂須賀正勝(高橋努)、秀吉を説得する
次に、思うように進まない秀長の四国攻めにしびれを切らし、出陣しようとする秀吉を説得する正勝のシーンがある。大軍と大量の舟を用いた秀長は各地で長宗我部軍を追いつめていた。元親を死なせたくない秀長は谷忠澄を通じて元親に降伏を呼びかける。しかし元親は頑として受け入れなかった。膠着する四国征伐にしびれを切らした秀吉は、関白として天下に力を知らしめようと出陣を決める。そんな秀吉の説得を買って出たのは長年の腹心である正勝だった。正勝の言葉は秀吉に届き、秀長は3日の猶予を与えられた。
SNSでは「この時期の秀吉に出陣御無用なんて言えるのはもう小六さんだけだよね。思えば遠くに来たもんだ」「あれだけ偉くなった秀吉が座って正勝と目線を合わせるのにはグッときたね」と、羽柴家の古参である正勝に注目が集まった。
秀長、長宗我部元親を説き伏せる
最後に、秀長が元親の本心を見抜いて見事に説き伏せたシーンが挙げられる。圧倒的な兵力差にすでに死を覚悟していた元親だったが、何としても元親を死なせたくない秀長は、かつて元親が姫和子と呼ばれたいた頃に身に着けていた鮮やかな着物を谷忠澄に託す。着物を身に着けた元親は晴れ晴れとした表情で秀長と再会し、秀吉への臣従を宣言した。
SNSでは「最近、シビアな一面も見せたけど久々に秀長らしいところが見れたね」「秀長にとっても馬揃えの時に会った元親は印象に残っていたんだな」と、2人のやりとりに投稿が集まった。
きょう27日に放送される第37話「秀長の国」では、秀吉がとうとう朝廷の最高職である関白に就任する。そして四国を平定した秀長には恩賞として大和一国が与えられる。拠点を大和郡山城に移した秀長だが思わぬ事態が待ち受けていた。


