今回は前回に引き続き、1583(天正11)年の様子が描かれた。以下では、最も注目されたシーン以外の見どころを紹介していく。

まずは、互いに手を取って北庄城の天守から身を投げた、柴田勝家と市のシーンが挙げられる。一度は自害を決意した市だったが、勝家によって思いとどまる。迫りくる羽柴軍の兵に対し勝家は奮闘するが北庄城の天守にまで追いつめられ、後がなくなった勝家と市は小一郎(仲野太賀)の目の前で飛び降りることを選ぶ。夫婦として過ごしたのは約7か月の短い期間だった。

SNSでは「まさか2人そろって投身するとは思わなかった」「短い結婚生活だったけど、2人とも本当に満足していたんだな」と市と勝家の衝撃的な最期にコメントが集まった。

作中で登場した織田信長(小栗旬)のきょうだいは、織田信勝(中沢元紀)と市の2人だったが、史実では少なくとも兄弟は合わせて11人、姉妹は市のほかにお犬の方という女性がいたとされている。1583(天正11)年時点でも織田信包、織田信照、織田有楽斎の3人が生存していた。信包は織田一門衆の中でも実戦経験が豊富で、長島一向一揆攻め、越前一向一揆攻め、石山本願寺攻め、雑賀攻め、荒木村重討伐に参戦している。1581(天正9)年の京都馬揃えでは信長の嫡男・織田信忠、次男・織田信雄に続く3番目の地位だったとされている。のちに出家し老犬斎と号した。

信照は他の兄弟に比べてほとんど実像が分からない人物。尾張志によると常に屋敷にいて、あまり外出しなかったようだ。1594(文禄3)年に熱田神宮へ長刀を寄進したという記録が残っている。

有楽斎は1582(天正10)年、本能寺の変が起きた際、弟である織田長利と信長の嫡男・織田信忠と共に二条御所にいた。長利と信忠は討死したが、有楽斎は生き延びた。その後、千利休(吉岡秀隆)の弟子となる。江戸時代になると徳川家康から屋敷を与えられ、その周辺が有楽原などと呼ばれ後に有楽町という地名につながったという説がある。

織田信孝(結木滉星)、自害に追い込まれる。

次に捕えられ、織田信雄の前に引きずり出され、自害に追い込まれた信孝の姿がある。

手を組んでいた柴田勝家が秀吉に敗北したことで信孝も捕らえられる。そして兄である信雄と対面することに。兄弟の間にできた溝はもはや埋めることは叶わなかった。信孝は恨みの言葉を残して尾張・内海へ送られる。SNSでは「信孝の最期の場面が信雄との対面というのが兄弟を徹底して描くこのドラマらしいと言えるね」「信孝の方が信雄より優れてそうだったのに。組む相手は重要なんだな」と、信孝の最期に注目が集まった。

今回自害した信孝だが、史実では岐阜城を開城した後、尾張知多郡野間へ送られると大御堂寺、現在の野間大坊に入る。そして大御堂寺14坊の1つである安養院で信雄の命令で自害させられた。この野間はかつて1160(平治2)年に源頼朝・義経の父である源義朝が長田忠致・景致父子に裏切られて殺害された地。そして信孝は義朝にちなんだ「昔より 主を討つ身の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前」という辞世の句を残したと伝わっている。「昔からこの野間は主君を討つ者が出た場所である。主君を討とうとしている秀吉よ、お前にもいずれその報いが来るのを待っていろ」という意味だ。

さらに信孝は腹を切った後、自分の腸をつかみ出し、床の間に掛かっていた梅の掛け軸へ投げつけたという壮絶な逸話があり、秀吉に対して激しい恨みを抱いていたことがうかがえる。安養院には信孝が自害に使用されたと伝わる短刀や、血痕が残るとされる掛け軸が残っている。なお、信孝の介錯人を務めた太田新左衛門尉という家来も自害して殉死した。また、信孝の母である坂氏は、賤ケ岳の戦いの前に秀吉によって岐阜城が攻撃され降伏した際に信孝の娘と共に人質となっている。しかし、賤ケ岳の戦いの後に秀吉の命令で孫娘と共に磔にされた。

小一郎、千宗易と対面する

最後に大徳寺で修行することで傷心を癒やす小一郎が千宗易(吉岡秀隆)と対面するシーンがある。目の前で市を死なせてしまった小一郎。すでに覚悟が決まっていた秀吉とは違い、小一郎は大きく傷つく。

大徳寺で修行に励む小一郎は宗易という茶人と出会った。茶人ながら抹茶を好きではないという宗易。破天荒な性格の宗易だが、そんな彼との問答で小一郎は天下人を目指す秀吉を支えることを改めて決意した。SNSでは「この利休、ものすごい曲者感がするな」「抹茶が苦手な利休なんて斬新すぎる」と、利休の強烈なキャラ設定が話題となった。

きょう6日に放送される第34話「最強のライバル」では、秀吉は権力を示すため、大坂城の築城を開始。一方、織田信雄が徳川家康(松下洸平)に接近し、共に秀吉を討とうと誘いかける。

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