そして、ここで鬼塚という教師の特殊さが浮かび上がる。普通なら、家出した高校生に対して、「親にも事情がある」「大人になれば分かる」「将来のために今は我慢しろ」と諭す場面だろう。
しかし鬼塚は違う。藤吾の前で、「だから大人は嫌いなんだよ」と言う。教師でありながら、大人の側に立たない。むしろ大翔と同じ場所まで降りて、大人に向かって怒る。ここが、鬼塚の教師としての異質さなのだろう。
鬼塚は、子どもを“大人の正解”へ連れていく教師ではない。大人のほうを一度、子どもの場所まで引きずり下ろす。そして、「本当にお前たち大人のほうが正しいのか」と突きつける。
だから今回、鬼塚に教育されたのは大翔だけではない。小泉もそうだ。人気教師という立場に安住しかけていた彼女は、鬼塚の姿を見ながら、自分がいつの間にか「生徒に嫌われない教師」になっていたことに気づいた。
柏原もまたそうだ。シリーズ開始当初は、鬼塚のやり方に冷めた視線を向けていたが、今では生徒の家庭にまで一緒に乗り込み、鬼塚とは違う言葉で生徒を支えるようになっている。
そして大翔の家庭もまた、完全に解決したわけではないにせよ、父親の期待に従うだけだった息子が、自分の人生を自分の言葉で語り始めた。鬼塚の周囲では、少しずつ“大人”のほうが変わり始めているのだ。
周囲に「本当にお前はそれでいいのか」と突きつけ続ける
ここまで7話を見てくると、2026年版『GTO』で鬼塚が相手にしているのは、もはや学校だけではないようにも見える。フィードバック制度。コスパ。AI。同調圧力。カスタマーハラスメント。そして今回の、「子どものため」という名の期待。どれも、一見すると完全に間違っているわけではない。評価制度には合理性がある。
AIは便利だ。空気を読むことも必要だ。親が子どもの将来を心配するのも当然だ。教師が保護者とのトラブルを避けようとすることも、現場を考えれば理解できる。問題は、それらの「正しさ」が強くなりすぎたときだ。
正解を優先するあまり、人を見ることを忘れる。失敗を避けるあまり、本音を言えなくなる。期待するあまり、相手の人生を奪ってしまう。評価されることを意識するあまり、自分自身が何を大切にしていたのかを見失う。
鬼塚が壊しているのは、まさにそうした“もっともらしい正しさ”なのだろう。そして鬼塚自身は、いつも非効率で、乱暴で、危なっかしい。深夜に生徒と学校へ忍び込む。保護者会では、親の機嫌を取るどころか真正面からケンカを売る。教師として模範的とは、とても言い難い。
だが、その鬼塚を見て、人気教師だった小泉が自分を見つめ直す。柏原が変わる。生徒が変わる。家庭の関係まで揺さぶられる。
つまり鬼塚は、「正しい教師」になることで人を教育しているのではない。自分の不器用さも、失敗も、青臭さもさらけ出しながら、周囲に「本当にお前はそれでいいのか」と突きつけ続けることで、人を変えている。
鬼塚が教育しているのは、生徒だけではない。教師も。親も。そして、効率や正解や失敗しないことを求めすぎる、今の社会そのものなのかもしれない。





