連続ドラマとして28年ぶりに復活し、反町隆史が元暴走族らしいヤンキー精神で真正面から学校の問題に飛び込んでいく、カンテレ・フジテレビ系ドラマ『GTO』(毎週月曜22:00~ ※FOD・TVerなどで配信)の第6話が、24日に放送された。
今回は「教師とは何か」という問題を、AIという題材を通して考えてみたい。「人間がAIになる」怖さと、それとは対極にいる、鬼塚というあまりにも原始的で人間臭い大人についてである。
【第6話あらすじ】担任を替えてほしいという生徒に鬼塚は…?
1年B組きっての秀才・福田樹(柴崎楓雅)が「担任を替えてほしい」と鬼塚(反町隆史)に直接訴える。自分より知能が低い人間に勉強を教わることが我慢できないという樹は、大久保(宇梶剛士)と中丸(近藤芳正)にも直談判。東大合格間違いなしといわれる樹の転校を恐れた中丸は、鬼塚に樹への接触を禁じる。
しかし樹は、担任交代についてクラスで多数決を採ろうと提案。さらに数学教師・阿部郁人(市川知宏)を教室に招き、クイズ形式で鬼塚の能力を試す。知識では完敗する鬼塚だったが、持ち前の天然ぶりを発揮し、投票結果はまさかの同数。納得できない樹は、阿部のクラスへ移ることになる。
そんなある夜、樹の祖母が突然倒れる。慌ててAIに助けを求めるが、返ってくるのは「119」「近くに信頼できる大人がいれば」といった回答ばかり。両親は離婚し、父もほとんど家にいない樹は119に連絡し、病院へ搬送してもらう。
手術を待つ不安の中、新担任の阿部に助けを求めるが、その答えもAIのような優等生的なもの。柏原(生見愛瑠)に連絡すると、「鬼塚先生に相談してみれば」と言われる。すると、すでに柏原から事情を聞いた鬼塚から着信と心配のメッセージが殺到。樹がおそるおそる電話をすると、鬼塚は近所の病院をしらみ潰しに探し、すでに樹のいる病院まで駆けつけていた。
そこへ柏原も現れ、今の世の中はコスパを求め、素早い回答ばかりを求めがちだが、困った時に本当に必要なのは“共感”だと語る。AI的な回答をする阿部と、人間臭く親身になってくれる鬼塚。樹の心は大きく揺れる。
祖母は無事に助かり、樹も鬼塚のクラスへ復帰。これで一件落着と思いきや、今度はサッカー部の特待生でゴールキーパーの細川大翔(西浦心乃助)が、練習中の事故で左手を複雑骨折してしまい──。
教師は単なる「知識を教える人」ではない
第6話は、一見すると分かりやすい「AI対人間」の物語だった。困った樹がAIに助けを求める。AIは「119番へ連絡する」「近くに信頼できる大人がいれば頼る」と、間違ってはいない答えを返す。新しい担任となった阿部もまた、ほとんど同じような“優等生的回答”を口にする。
そして対照的に、鬼塚は病院をしらみ潰しに探し回り、樹のもとへ駆けつける。構図としては、かなり分かりやすい。AI=知識。阿部=模範解答。鬼塚=人間。これまでの2026年版『GTO』と同じく、かなり大胆に記号化された人物配置である。しかし、その分かりやすさがあるからこそ、第6話が投げかけた問題もまた、鮮明に浮かび上がった。
それは、「正解を知っていること」と「人を救えること」は本当に同じなのか、ということだ。
樹がAIに求めた「どうすればいい?」という問いには、確かに正解がある。救急車を呼ぶ。医療機関へ連れて行く。周囲の大人へ助けを求める。AIも阿部も、その答えを間違えてはいない。
だが、樹が本当に欲しかったものは、情報だけだったのだろうか。祖母が手術室に運ばれ、赤いランプを一人で見つめる高校生に必要だったのは、「適切な行動」を教えてくれる誰かではない。「大丈夫か」と心配し、自分を探し回り、実際にそこまで来てくれる誰かだった。
AIと阿部が「回答」を返したのに対し、鬼塚は「応答」したのである。ここに、第6話の一番面白いところがある。
正解は一般化できる。だが、「いま目の前にいるこの一人の人間に、自分は何をすべきなのか」という問いへの答えは、一般論だけでは出てこない。
鬼塚は知識では樹に負ける。数学教師の阿部にも到底かなわない。クイズをすれば惨敗する。それでも、生徒が人生で初めて「知識だけではどうにもならない問題」に直面したとき、最後に必要とされたのは鬼塚だった。
これは、「教師とは何か」という問題にもつながっている。AIが膨大な知識を持ち、質問すれば瞬時に答えを返してくれる時代に、教師が単なる「知識を教える人」であるなら、その存在意義は揺らいでいくだろう。
だからこそ、第6話で樹が最初に突きつけた「自分より知能の低い人間に教わりたくない」という言葉は、実はかなり本質的だ。知識量だけで教師の価値を測るなら、樹の主張には一理ある。では、それでも人間の教師はなぜ必要なのか。
第6話が示した答えは、驚くほど原始的だった。困ったときに来る。一緒に心配する。正解が分からなくても、そばにいる。それだけである。だが、人間は時として、その「それだけ」に救われる。

