• (C)押見修造/講談社

    (C)押見修造/講談社

本作を見ていて、改めて興味深いのは監督陣の顔ぶれである。

『惡の華』という作品だけを見ると、ボードレール、文学少年、地方都市、思春期――そうした要素から、どこか"文学的青春ドラマ"として映像化されても不思議ではない。実際、もっと整った映像や美しい演出を得意とする監督が手掛けていれば、本作は違った作品になっていただろう。

だが、今回のドラマ版はそうなっていない。むしろ画面から伝わってくるのは、地方都市特有の閉塞感であり、思春期の居心地の悪さであり、そして何よりも、人には見せたくない"恥"の感覚だ。その理由を考えると、井口昇やヤングポールという人選は実に納得がいく。

井口昇といえば、一般的には過激なB級映画やカルト作品のイメージが強い。しかし彼の作品を追っていくと、その本質は決して悪趣味そのものにはない。むしろ彼が繰り返し描いてきたのは、社会にうまく適応できない人間や、周囲から笑われる人間、どこか歪(いびつ)で不器用な人間たちだ。

彼らは決して格好よくない。むしろ滑稽ですらある。だが井口作品は、その滑稽さを嘲笑の対象にはしない。どこか愛情を込めて見つめ続ける。その視線は、押見修造の作家性とも不思議なほど重なる。

『惡の華』の春日高男もまた、一般的な青春ドラマの主人公ではない。女子の体操着を盗み、自らの欲望と自己嫌悪に苦しみ、他者との関係を壊していく。普通の作品であれば笑い者にされてもおかしくない存在だ。

しかし原作者の押見修造は、その醜さや情けなさを決して笑わない。春日の抱える痛みを、真正面から描こうとする。それは井口昇の作品にも通じる姿勢だろう。

一方で、ヤングポールが担当したエピソードからは、また別の魅力が感じられる。彼の演出には、どこかドキュメンタリーのような生々しさがある。俳優に芝居をさせるというよりも、その場に存在させる感覚に近い。だからこそ、本作に漂う地方都市の湿度や、教室の空気感、誰にも言えない秘密を抱えた高校生たちの気まずさが、不思議なほどリアルに立ち上がる。

思えば『惡の華』という作品の本質は、青春の輝きではなく、青春という人生でもっとも恥ずかしい季節を描くことにあった。誰にも知られたくない欲望。誰にも理解されない孤独。そして、自分自身ですら直視したくない醜さ。それらを美しく飾り立てるのではなく、むしろそのまま画面にさらけ出してしまう。

だからこそ本作には、時に見ているこちらが目を背けたくなるような痛々しさがある。井口昇とヤングポールの起用は、その"恥のリアリティ"を失わないための選択だったのではないだろうか。

『惡の華』は青春ドラマである。だが同時に、それは青春という名の傷口を覗き込む物語でもある。本作が持つ独特の生々しさは、原作の力だけでなく、その傷口から目を逸らさなかった監督たちの視線によって支えられているように思える。

  • (C)「惡の華」製作委員会2026 (C)押見修造/講談社