1999年9月に初めて日本のリングに上がり、カール・マレンコ(米国)に勝利したヴァンダレイ・シウバは、その後『PRIDE』のリングで無効試合と引き分けを挟み17連勝を飾った。2004年大晦日の『PRIDE男祭り』でマーク・ハント(ニュージーランド)に1-2の判定で敗れるまで、実に5年3カ月間、無敗を誇ったのだ。

  • 21世紀初頭、PRIDEのリングを席巻した「戦慄の膝小僧」ヴァンダレイ・シウバ(写真:真崎貴夫)

この間にミドル級王座を奪取、ミドル級GPも制しPRIDEの主役であり続けたシウバ。そんな彼にとって、「絶対に負けられない」試練の大一番があった。2002年4月28日、横浜アリーナ『PRIDE.20』でのミルコ・クロコップ(クロアチア)戦である─。

■ミルコ寄りの特別ルール

ヴァンダレイ・シウバにとっての「出世試合」は2001年3月25日、『PRIDE.13』での桜庭和志戦だろう。あの夜の秒殺勝利で、彼は自らの名を世界に轟かせた。
また、「最高傑作」はクイントン・ランペイジ・ジャクソン(米国)を完膚なきまでに叩きのめした一戦ではなかったか。2003年11月9日、東京ドーム『PRIDE GRAND PRIX決勝戦』メインエベントでの闘い。強烈な膝蹴りで388秒KO勝ちを収め、ミドル級トーナメントを制した。

そして、「出世試合」と「最高傑作」の間に一つ、シウバにとって絶対に負けられない試合があった。ミルコ・クロコップとの初対決だ。

シウバvs.ミルコ。
この試合が決まった時、PRIDEルールでは「シウバが絶対的優位だ」と思った。 シウバがミドル級に対して、ミルコはヘビー級とサイズ差はあるが、総合格闘技におけるキャリアが違う。

通算してMMA23戦、PRIDEのリングでは7勝無敗。桜庭和志(高田道場/当時)を2度KOしミドル級チャンピオンであるシウバ。
対して、K-1ファイターのミルコは、これがMMAでは4戦目。藤田和之、永田裕志には秒殺勝利しているが、高田延彦とは引き分け。対戦相手は、いずれもプロレスラーで生粋のMMAファイターとの対戦経験がない。

PRIDEルールは、1ラウンドが10分、2、3ラウンドは5分の形式。当然のことながらグラウンドの攻防もあるわけで、このレギュレーションに当時のミルコが対応できるとは思わなかった。

しかし、対戦発表の後に驚きのリリースがなされた。
それは、この試合に限ってPRIDEルールではなく「特別ルール」が採用されるというもの。概要は以下の通り。
<3分×5ラウンド、グラウンドで膠着した場合はすぐにブレイクしスタンドで再開、フルラウンド闘い抜いた場合は勝敗無し>

明らかにミルコに配慮した設定。シウバは、この条件を呑んでリングに上がる。「シウバ絶対的優位」のはずが「シウバ試練の一戦」に変わってしまっていた。

  • 2002年4月28日、横浜アリーナのリングでミルコに攻め入るシウバ。当時、彼はミドル級ファイターだったが、この時は97.6キロまで体重を上げて試合に挑んだ(写真:真崎貴夫)

■「どんな条件でも逃げない」

ぎっしりと埋まった客席、立ち見のファンも含め超満員(観衆1万8926人/主催者発表)となったアリーナ内には、独特の緊張感が漂っていた。
開始早々にシウバがローキックを放つが空振り。するとミルコが自らの太ももを指さして挑発、激しく火花を散らす。一気に距離を詰めたいシウバと、自分の距離から得意のハイキックを見舞いたいミルコ。序盤は互いに打撃を繰り出し互角の展開だった。

だがラウンドが進む中、随所でシウバが仕掛ける。
ミルコは過去の試合から学んでいたのだろう、低いタックルに対する対策はできていた。それでも、パンチを繰り出しながら迫りくる胴タックルには対応できない。シウバが幾度もグラウンドの展開に持ち込む。そんな時、ミルコはガードポジションを取り膠着状態をつくった。シウバはここからパウンドでダメージを与え、ミルコのスタミナを削っていきたいところだったが、今回は特別ルール。レフェリーから「スタンド!」と命じ続けられた。

互いに相手に決定的ダメージを与えられぬまま5ラウンドが終わった。観る者にとっては、アッという間のスリリングな15分間だった。規定通り勝敗は無し。でも、もし判定があれば、主導権を握る時間が長かったシウバに軍配が上がっていたのではないか。そう感じた試合内容だった。

  • 通算成績35勝(28KO&一本)14敗1分け1無効試合のヴァンダレイ・シウバ。記録以上に記憶に残る戦士である(写真:真崎貴夫)

いま振り返って思うことが2つある。
1つは、「ミルコが守られた試合」だったということ。もし通常のPRIDEルールで行われていれば、やはり「シウバが絶対的優位」だったろう。
もう1つは、引き分けに終わったことが両雄を羽ばたかせたことだ。
この後、ミルコは本格的にMMAに取り組み、エメリヤーエンコ・ヒョードル(ロシア)、アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラ(ブラジル)とともに「PRIDEヘビー級3強」と称されるまでに成長を遂げる。シウバも『PRIDEミドル級GP2003』を制するなど軽重量級のトップファイターであり続けた。
あの試合で、いずれかが敗者となっていたら違った状況が生じていたかもしれない。

10年以上も前のことだが、PRIDEが幕を閉じた頃にラスベガスでシウバに会い尋ねたことがある。
「ミルコとの2度目の対決は、あなたが負けた(2006年9月『PRIDE無差別級GP準決勝』でハイキックを浴びKO負け)。でも初対決は、通常のMMAルールの闘いなら完勝していたのではないか?」と。

彼は答えた。
「そう思う。実際、(判定があったなら)私が勝っていた。あれは絶対に負けられない闘いで、ファイターとしてのターニングポイントとなる試合だったと言ってもいい。キャリアの中でも特に緊張した試合の一つだ。
もし(ミルコに)KOされていたら、あそこでキャリアを終えていたかもしれない。でも、どんな条件でも逃げるつもりはなかった、俺はPRIDEのリングで闘うのが大好きだったからね。もっと日本のファンの前で闘い続けたかった」

シウバのMMAラストファイトから4年が経つ。それでも、ダルードの『Sandstorm(サンドストーム)』を聴くと、いまも彼の勇姿が鮮明に脳裏に甦る─。

文/近藤隆夫