2000年代にPRIDEのリングを席巻した“戦慄の膝小僧”ヴァンダレイ・シウバ。桜庭和志を破りミドル級のベルトを腰に巻くと、その後も強豪を次々と倒した。PRIDE通算戦績は22勝4敗1分け1無効試合。初登場から5年3カ月もの間、無敗を誇ってもいた。

  • PRIDEのリングでヴァンダレイ・シウバが強かった「本当の理由」─。

    2001年11月、東京ドームのリングで桜庭和志を返り討ちにしPRIDEミドル級のベルトを腰に巻いたヴァンダレイ・シウバ(写真:真崎貴夫)

シウバは、何故あれほどまでに強かったのか? 凶暴なファイトスタイル、無尽蔵のスタミナ、絶対に試合を諦めない強靭なメンタル。それらは、如何にして育まれたのか? 強さの秘密は、シュートボクセ・アカデミーに隠されていた─。

■フジマールは叫び続けていた

リオ・デ・ジャネイロから飛行機に乗ること1時間20分。人口約195万人、コーヒーの産地として知られ、計画的な街づくりが進められたことで「南米一、美しい街」とも呼ばれるパラナ州の州都クリチーバに着く。この街に設立されたムエタイジム、シュートボクセ・アカデミーを私は2000年代に幾度か訪れた。 当時、PRIDEのリングで大活躍していたヴァンダレイ・シウバらを取材するためだった。

初めて、アカデミーに入った時のことはよく憶えている。視界に入ってきたのが、想像とは異なる光景だったからだ。

昼前から夜まで一日3クラス制でトレーニングが行われていた。プロのファイター、一般ジム生の区分けはない。皆が一緒に練習をしている。
学校には通っていないのだろうか、ムエタイパンツを穿いた小学生くらいの男の子が一日中マットの上で動いていたり、おそらくはダイエットのために通い始めたのであろう腹部を膨らませた中年男性が、シウバの横でサンドバッグを蹴っていたりする。
その光景は、少しばかりコミカルだった。それでも、空気が緩んでいるわけではない。シウバやマウリシオ・ショーグンといったトップファイターが、サンドバッグを撓らせ鋭い蹴撃音を響かせるとアカデミー内には瞬時に緊張感が漲る。

シウバがアカデミーに姿を現すのは毎日、午後6時過ぎだった。
準備運動をし、サンドバックを叩いて汗を流した後にリングに上がる。ここからが本番の練習だ。長時間にわたるスパーリングが始まる。ショーグン、ムリーロ・ニンジャ、サイボーグらジムメートが彼の相手を務めていた。

まず10分。グローブこそ大きめのものを着用しているが、いきなり試合さながらの全力スパーだ。お互いに手加減はしない。激しく打ち合う様子を、アカデミーの会長フジマール・フェデリコとコーチのハファエル・コルデイロが並んで見守る。一般のジム生たちも動きを止めてリングに視線を向けていた。

フジマールは大きな声でシウバに檄を飛ばし続ける。
「ボア(いいぞ)!」
「お前は強い!」
「そうだ、攻めるんだ、チャンピオン!」
その言葉に導かれるようにシウバは、激しく動いていた。

10分間のスパーリングが終わると3分のインターバルを挟み、相手を代えての次の10分スパーが始まる。その間も、フジマールは「ボア!」「ボア!」とシウバに声をかけ続けていた。結局、この日は10分×4ラウンドのスパーをシウバは行った。
闘い終えてマット上に大の字になった彼に、水が入ったボトルを手にしたフジマールが駆け寄って言う。
「良かったぞ! また強くなっている! このまま行けば次の日本での試合も必ず勝てる! 行けるぞ、チャンピオン」
シウバは、激しく呼吸を繰り返しながらフジマールの瞳を見つめ小さく頷いていた。

  • リング上でシウバの勝利を喜ぶシュートボクセ・アカデミーの面々。シウバの隣には必ずフジマール・フェデリコ(青ジャージ着用)の姿があった(写真:真崎貴夫)

■シウバに必要だったこと

そんな練習が来る日も来る日も続けられていた。
ある時、私はフジマールに尋ねた。
「あなたの指導は”洗脳”に近い。選手のやる気を引き出すことに重点を置いている?」
彼は、表情に笑みを浮かべながら答えた。

「そうだ。ここで教えている技術はオーソドックスなムエタイ。それを習得できたなら、次に必要なのは『自分は絶対に負けない』という強い気持ちをつくることだ。それは、限界を超えた激しい練習でのみ得られる。その状態に選手が辿り着けるように最大限のサポートをするのが私の役目さ」

「選手はリングに上がったら、最後の1秒まで勝利を目指し必死に闘わねばならない。途中で諦めることは許されないし、試合中に弱気になってしまう選手がいたら、それは悲しいことだ。私はそんな選手が嫌いだ。
必死に練習をして闘っても負けることもある。悔しいがベストを尽くせたならそれでいい。 大切なのは、そこに至る過程だ。やり切ることが人間を成長させてくれる」

「格闘技を始めたばかりの頃のヴァンダレイは、心の強い男ではなかった。でも彼の凄いところは、自分の心が強くないことを自覚し、そのうえで仲間たちと一緒に強くなろうと必死に努力してきたことだ。ゾーンに入った時のヴァンダレイは、とてつもなく強い。でも時々、心の弱さが出てしまう。そんな時に私の支えが必要なんだ」

こんなことがあった。
練習時間になっても、ヴァンダレイはアカデミーに姿を見せない。彼の家に電話を入れたがつながらない。フジマールは、車で出掛けて行った。
約1時間後、フジマールがシウバを連れてきた。

シウバが私に、こう話したことがある。
「辛いのは練習。それに比べれば試合は楽しい。日本に向かう飛行機に乗る時には、すでに心が落ち着いている。それは、やるだけの練習はやったと心底から思えるからだ。フジマール、そして一緒に練習してくれた仲間たちにはいつも感謝している」

  • PRIDEのリングで5年3カ月もの間、負け知らずだったヴァンダレイ・シウバ。2002年2月『PRIDE.19』では元UWFの田村潔司と闘い、2ラウンドKOで勝利を収める(写真:真崎貴夫)

2007年にPRIDEの幕が閉じた。これに伴い、シウバは戦場をUFCに移す。その際に長年通い続けたシュートボクセ・アカデミーから離れる。
フジマールは、何も言わなかった。

オクタゴンの中でのシウバの戦績は芳しくなかった。
黒星が先行。かつてのキレのある動きも影を潜めた。年齢的にピークを過ぎたことも一因だったろう。だが、それ以上に自らの肉体をトコトンまで追い込み、「これだけやったのだから負けるはずがない」と自信を深める機会を失ったことが大きかったように思う。

ヴァンダレイ・シウバが、PRIDEのリングで輝き続けられた理由…それは、狂気に満ちたファイトスタイル、技術云々ではなく、フジマールの下で極限の練習に身を浸し「無尽蔵のスタミナ」「絶対に諦めない心」、そして「確固たる自信」を培っていたからではなかったか─。

次回は、『ヴァンダレイ・シウバ試練の闘い─。大観衆の『PRIDE.20』ミルコ・クロコップ戦』をお届けする。

文/近藤隆夫