「最強の格闘家」と呼ばれ続けたヒクソン・グレイシーは、決して喧嘩好きな男ではない。むしろ争いごとを嫌うタイプだ。にもかかわらずリオ・デ・ジャネイロで過ごした20歳前後の若き日々、ストリートファイトと道場でのチャレンジマッチに明け暮れた。闘い続けた理由…それは、一族の誇りを守るため──。

  • ヒクソンvs.ウゴ、30余年前にリオを騒がせた「伝説のビーチファイト」の真相

    現役を引退した後もヒクソンは、柔術の普及に力を注いでいる。鋭い眼光は若き時と変わることがない。

■「グレイシー柔術」vs.「ルタ・リーブリ」

「ウゴは何処にいるんだ!」
そう言ってヒクソンは仲間たちとともに、一人の男を探し続けた。

20代後半までヒクソンは生まれ育った街、リオ・デ・ジャネイロで暮らしていた。
若き日は、柔術のトレーニングに熱中する傍らストリートファイトとチャレンジマッチに明け暮れた。ストリートファイトとは文字通り路上での喧嘩、チャレンジマッチは道場破りを相手に闘うことだ。

十代の頃からヒクソンの名は街で広く知られていた。柔術の大会では常に優勝を果たし、またブラジル全土にテレビ放送されたバーリ・トゥード(総合格闘技)でも巨漢戦士ズールに勝利している。グレイシー一族の中でも最強の男と目されていたのだ。

そのため、狙われることが多々あった。街中で喧嘩を売られることもあれば、道場に押しかけて来る者も多くいた。ヒクソン自らが他人に喧嘩を売ることは一度もなかったが、否応なしに闘いの日々を過ごすことになっていたのである。

そんなヒクソンの幾多のストリートファイトの中でいまも語り継がれ、つとに有名なのが「炎天下のビーチでの死闘」。相手は、ウゴ・デュアルチだった。

当時、ブラジルにはグレイシー柔術に対抗する格闘技としてルタ・リーブリが存在していた。競技人口、知名度ともにグレイシー柔術が上回っていたが両者は事あるごとにいがみ合い、選手間の喧嘩が絶えない。

ウゴ・デュアルチは、ルタ・リーブリのトップ選手の一人だった。
そんな彼は、吠えていた。
「ヒクソンなんて大したことない。俺が倒してやる。だが奴は臆病者だから俺を怖がって逃げ回ることだろう。グレイシー柔術の時代は、もう終わったんだ」

■旅立つ前に決着をつけねば

普段なら、そんな挑発をヒクソンは無視していたかもしれない。だが、この時ばかりは、ウゴと決着を着けておく必要があった。
それは、2カ月後にリオ・デ・ジャネイロを離れる決意をしていたからだ。

ヒクソンの兄、グレイシー家の長男ホリオン・グレイシーはすでに米国に渡っていた。父エリオが創始したグレイシー柔術を世界に広めるために。その兄ホリオンから連絡があった。
「カリフォルニアに来てくれ。ここでチャレンジファイトを行い柔術を世界に広める準備ができつつある」
ホリオンは自宅のガレージに道場をつくり、そこでグレイシー柔術の強さを証明するために挑戦者を募っていた。それを迎え討つのがヒクソンの役目だった。

道場の仲間たちがヒクソンに言った。
「ウゴは喧嘩を売って評判を取りたいだけなんだ。このままアメリカに旅立ったら『ヒクソンは俺と闘うのが怖くて街から逃げた』と吹聴するつもりでいる。そんなことになったら俺たちも困る。何とかしてくれ」

弟のホイラー・グレイシーを含め道場の仲間たちは皆でウゴの居場所を探した。
そして、ある晴れた土曜日の午後、仲間からヒクソンに連絡が入る。
「コパカバーナ近くのビーチにウゴがいる」と。
ヒクソンは10人ほどの仲間とともに、そのビーチへと向かう。そのことをウゴも察知していてルタ・リーブリのファイターを集めて待ち構えていた。

昼下がりのビーチには大勢の人がいた。
だが、そんなことはお構いなしにヒクソンはウゴに歩み寄って言う。
「俺と闘いたいらしいじゃないか。やっと見つけたよ。いま、ここで1対1で勝負しよう」無言で頷いたウゴは両腕を広げて「手を出すな」と仲間たちに指示した。

■群衆の中での砂まみれの闘い

当然、レフェリーなどおらず誰が闘いの開始を告げたわけでもない。
ヒクソンとウゴは互いに前進し組み合い、その後、砂の上に転がり込んだ。ビーチにいる人たちが「何が始まったのか」と集まってくる。だが、決着がつくまでに大して時間はかからなかった。
砂の上を転がりながら上のポジションを奪ったヒクソンは、ひたすらウゴの顔面を殴り続ける。
「誰が最強だ、言ってみろ!」
そう叫びながら。
ウゴの顔が鮮血で真っ赤に染まる。耐えきれず、彼は負けを認めた。

  • マウントポジションを得た後にヒクソンは無類の強さを発揮する。絶対に相手を逃がさない。

ヒクソンは闘いにおいて、一切の妥協をしない。その様は苛烈を極める。だが、闘い終えて負けを認めた相手に対しては寛大だ。
自ら声をかけてウゴを誘い、一緒に海に入り血を洗い流した。
いろいろあったが握手を交わしてもいいかとヒクソンは思った。だがウゴは、そうではなかった。
「今日の闘いには納得がいかない。こんなビーチじゃなければ俺は負けなかった」
そう言い残して帰って行った。
ヒクソンは何も言わなかった。
(まあいいだろう、素直になれない時もあるさ)
それくらいに考えていた。

グレイシー柔術道場の仲間たちが、ヒクソンのもとに駆け寄ってくる。
みんな笑顔だ。
(これで安心してリオ・デ・ジャネイロを離れることができる)
そう思い、ヒクソンも安堵する。
だが、そうではなかった。
この数日後に大きな事件が起きる。そして再び、ヒクソンはウゴと闘うことになるのだ。

文/近藤隆夫 写真/真崎貴夫