ところが、状況は慶喜にとって悪いほうに転がっていく。家定は死の間際、一橋派を処分しろと直弼に託す。斉昭は謹慎、慶喜は登城禁止と聞いたときの慶喜の顔はこれまでになく感情的だった。草なぎ剛が好演するジャンルのひとつ、ヤクザものの映画やドラマで見せるぎりぎりとした修羅の顔がちらりと見えた。そこには「ホッと」も「さみしい」も超越したもっと激しい感情が浮かんでいた。

人間は一面的ではない。それは第5回で千代によって「強く見えるものほど弱きものです。弱きものとて強きところはある。ひとは一面ではございません」と表されている。

例えば、第8回では、徳川家康(北大路欣也)のコーナーでは“井伊家の「赤備え」”として井伊家の特徴である真っ赤な甲冑が紹介された。この赤い勇ましい甲冑から「井伊の赤鬼」と畏れられてきた井伊家。だがその強い「赤鬼」のイメージは、攘夷の志士たちにとっては退治すべき悪鬼のイメージに捉えられることになる。目下、その代表になっている井伊直弼自身はまるで「鬼」のイメージではないにもかかわらず、戦国時代から続いていきた「鬼」のイメージで語り継がれてしまう。これもまた、一面ではない人間の顔の一例であろう。

かつては物語ではシンプルに、どちらかを正義と悪として分けて描かれてきた。だが『青天を衝け』では極力、一面的な印象を植え付けないような配慮を感じる。直弼にも慶喜にも、それぞれ事情がある。喜作も栄一の恋の単なる当て馬的には描かれず、彼なりの男気や幸福が用意されている。

開国派と攘夷派、どちらが正しいとは言い切れない複雑な問題で、やがて栄一はそこに巻き込まれていく。その前に「強く見えるものほど弱きものです。弱きものとて強きところはある。ひとは一面ではございません」と語った千代と栄一が結婚することがその後の、栄一の人生観に影響を与えていくであろう。結婚を単なるラブストーリーのひとつの帰結として捉えず、あくまでも栄一がひとつひとつどう生きるか学び選び取っていく過程のひとつとして結婚というイベントを配置していると見ることも可能であり、そこに作家の才能の冴えを見る思いがする。

攘夷派の儒学者・大橋訥庵(山崎銀之丞)が「お主にもおおいに期待しておるぞ」と声をかけた後ろ姿にはなんだか見覚えが、返事をした声には聞き覚えがあった。次回、開国派と攘夷派のぶつかりあい、桜田門外の変!

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