「怪獣倶楽部」の中心人物・竹内博氏は1955年生まれ。小学1年生の時に見た東宝映画『キングコング対ゴジラ』(1962年)に感激して以来、大の怪獣ファンとなった竹内氏は、テレビの『ウルトラQ』『ウルトラマン』(いずれも1966年)放映時に円谷プロへ足しげく見学に通い、やがて中学卒業時の1971年には円谷プロへ入社。営業課の社員として関連写真の整理や怪獣設定などを行い、多忙な日々を送っていた。
SF研究家・ジャーナリストとして活躍したほか、数々の「怪獣図鑑」類を作って大ヒットさせた大伴昌司氏に師事し、雑誌・書籍編集のノウハウを学んだ竹内氏だが、その大伴氏は1973年1月に36歳という若さで故人となった。同じ年の2月には、『帰ってきたウルトラマン』(1971年)、『ミラーマン』(1971年)で「第二次怪獣ブーム」を巻き起こした円谷プロ二代目社長・円谷一氏(『ゴジラ』『モスラ』などで有名な円谷英二特技監督の長男で『ウルトラQ』『ウルトラマン』の監督としても知られる)も亡くなり、恩人が相次いでこの世を去ったことで竹内氏の意気も下がっていた。しかしこの数か月後、竹内氏にとって運命的ともいえる出会いが相次いで起きるのであった。
1973年4月、ヒーローショーや円谷プロ怪獣倉庫でのメンテナンスのアルバイトをしていた安井尚志氏や、当時高校生だった著述家の金田益実氏たちと竹内氏が出会ったことにより、同世代の特撮ファン同士による会合へと発展。その後、大学で安井氏と同級だった西脇博光氏も安井氏の紹介でメンバーに加わっている。後に特撮・アニメ評論の先駆者となる池田憲章氏、怪獣映画同好会「宙(おおぞら)」の会誌『PUFF(パフ)』の中島紳介氏、富沢雅彦氏や、氷川竜介氏、徳木吉春氏、当時最年少の中学生メンバー・原口智生氏などなど、今ではそれぞれ各方面で確かな実績を残し、活躍を続けているそうそうたる面々が集うようになった。
原口氏は東宝映画スタッフを親戚に持つ関係で、幼少時より東宝のスタジオや円谷プロの「東京美術センター(後に東宝ビルトと改名)」など、特撮作品の撮影現場を見学する機会に多く恵まれていた。その際、廃棄されかけていた特撮映画のミニチュアをもらいうけることもあり、ドラマ『怪獣倶楽部』第3号における「『ウルトラセブン』(1967年)の地球防衛軍潜航艇・ハイドランジャーのミニチュアの種類によって排水溝の穴の数が違う」などという疑問は、原口氏の少年時代の体験に基づいた実話だったそうだ。
「『ウルトラセブン』が終わった後、廃棄されかけていたハイドランジャーの木製の小サイズミニチュアをいただいて、ずっと大切に持っていたんです。あるとき講談社の『たのしい幼稚園』に載っていたハイドランジャーのスチール、これはブリキ製の大サイズだったんですが、を見ていて、『穴の数が違うなあ、どうなんですかね?』とみなさんに話したことがあったんです(笑)」(原口)
「よく“懐かしの作品”っていうけれど、懐かしいと思うのは、一度自分の中で途絶えていたものをふたたび呼び起こすってことだから」(金田)
「そういう点では、ウルトラマンやウルトラセブンを懐かしいと思っていなかった」(原口)
「子どものころに観た『キングコング対ゴジラ』の衝撃は、今になっても忘れられない。『ウルトラマン』もそうです。あれから50年以上の時間が過ぎても、私の心にはずっと『キングコング対ゴジラ』や『ウルトラマン』がいて、色あせることがない」(西脇)