住宅地に佇む小さな日本家屋こそ……

かつて大磯町東小磯のアパートに何年間か住んでいたことがある。まわりの住宅地には昭和の香り漂う家々が残っていたので、時間がある時は路地から路地へとぶらぶら歩きながら、古き良き大磯のお屋敷町情緒を楽しんだりしていた。

そんなご近所エリアの一郭にある平屋建ての木造家屋が、『破戒』『夜明け前』などの作品で日本文学史に名を刻む作家、島崎藤村の旧宅であることを知った時は驚いた。まわりを竹垣にグルリと囲まれているので、建物や庭はほとんど見えず、玄関前に「藤村旧宅入口」という案内板がなければ、通り過ぎてしまいそうなほど素朴な佇まいだったからだ。

その雰囲気は今もまったく変わらず、駐車場どころか駐輪場すらない家は、全国から藤村ファンが集まってくる観光スポットとはとても思えない。だが、"簡素な生活"を好んだという藤村は、空の上からこの建物を眺めて喜んでいるに違いない。

島崎藤村旧宅は庭からのみ見学可(9~16時、月曜休み、無料)

藤村旧宅はもともと大磯のとある商店によって大正時代~昭和時代初期くらいに建てられた貸家で、部屋数はわずか3室。文豪はそのうちひとつの部屋を執筆用の書斎として使っていたという。

藤村はこの家の書斎をそれまでの作家人生の中で一番気に入っていたという

文化財保護のため、残念ながら家の中にあがることはできないが、うららかな陽光が差し込む畳敷きの広縁に腰掛けてみれば、家の主が原稿書きの息抜きに眺めていたであろう庭園と空が見える。藤村は白い花が好きだったので、当時の庭には白い花をつける草木が多く植えられていたそうだ。

文豪が大磯へ引っ越してきた理由

さて、長野の馬籠宿に生まれて東京で暮らしていた島崎藤村が、なぜ大磯へ移住したかについては諸説あるが、一般的には先日このコラムでも紹介した大磯の左義長を見たのがキッカケだったと言われている。

それは昭和16年(1941年)1月のこと。藤村は湯河原へ向かう途中で、大磯に暮らす知人に誘われて左義長を見物した。昭和のはじめごろから10数年、湯河原へ年4回ほど足を運び、温泉で心身を休めるのが藤村の習慣だったというから、東海道線の車窓から見える大磯という町には、もともと馴染みがあったはずだ。

はじめて目にする勇壮な火祭りの左義長に心を打たれた藤村は、冬場でも東京より温暖な気候も気に入り、翌2月には早くも大磯へ引っ越してきた。このころ東京では太平洋戦争に突入するおそれがあることから、「万が一の事態に備えて65歳以上の者は田舎へ疎開しなさい」という布告が出ていたことも、69歳の作家の大磯行きを後押ししたのだろう。

そのころの藤村のメモには「大磯に家を借り受けておくことを思ひ立つ、大磯は温暖の地にて身を養うによし、時に仕事を携えて、かの海辺に赴くことゝす、余にふさわしき閑居(世俗を離れて心安らかに暮らす家)なり」と書かれていたという。

大磯で暮らしている間に藤村が好んで訪れたのは、鴫立庵照ヶ崎海岸。そして大好物だったのが、「國よし」のうなぎと、和菓子屋「新杵」の西行まんじゅう。

(左)吉田茂元首相や白洲正子などにも愛された「國よし」は享和3年(1803年)から18代続く老舗
(上)明治24年(1891年)創業「新杵」での文豪のお気に入りは名物「西行まんじゅう」

どちらの老舗も藤村が通った時代とほとんど同じ姿で、今も営業を続けている。藤村旧宅からも近いので、大磯散策の途中でぜひ立ち寄ってみたい。

今際の言葉は「涼しい風だね」

大磯へ移り住んだ2年後、昭和18年(1943年)8月22日。71歳の藤村は、この家で小説『東方の門』第3章を執筆中に、脳溢血で倒れて亡くなった。枕元にいた妻の静子に呟いた「涼しい風だね」が最期のひとことだったという。

文豪の遺骨は、大磯駅と国道1号の間に位置する地福寺にまつられた。境内には梅の古木の枝が波打つように広がり、その枝の下に島崎藤村と静子の墓が仲良く並んでいる。戒名は文樹院静屋藤村居士。

大磯駅から徒歩3分ほどの地福寺にある墓は藤村の好んだ"簡素"な雰囲気

墓碑の「島崎藤村墓」という文字を書いたのは、藤村と親しかった画家の有島生馬だ。ふたりは日本ペンクラブの会長(藤村)、副会長(有島)として、昭和11年(1936年)に国際ペンクラブ大会が開催される南半球のアルゼンチンまで、神戸港から半年かけて船旅をしたそうだ。

ちなみに、藤村が亡くなった後の家に引っ越してきたのは、偶然にも同じ作家である高田保だった。高田保は藤村のことを尊敬していたようで、人気随筆「ブラリひょうたん」の中でも"藤村先生"と呼びつつ、「藤村先生亡き後に奥様が大磯の家を去る際、次に借りる人のために障子紙と雑巾を置いていってくれた話」や「墓のまわりにある梅の根が藤村先生の棺に向かってのびている話」などをしたためている。

ところで、藤村という名はペンネームで、本名は春樹というそうだ。春樹といえば、同じ作家の村上春樹氏のことが思い浮かぶが、実は村上氏も大磯にゆかりがあり、一時期住んでいたとか、いやいや現在も住んでいるはずだとか、地元ではさまざまなウワサが飛び交っている。

いずれにしても、春樹という名の作家は誰もが大磯に導かれてしまう運命なのかもしれない……というのは自分でもかなり強引な仮説だと思うが、大磯に作家を惹きつける何かがあることは間違いないだろう。