――そういう気持ちもあって、ラジオにも携わるようになったと。

ラジオが好きだったんで。半年間芸人として舞台に立ったあと、前田昌平さんにニッポン放送に連れていってもらって、山田邦子さんの『涙の電話リクエスト』と『槇原敬之のANN』に関わることになるんですけど。『槇原敬之のANN』の現場には91年の2月に行っているんです。『とんねるずのANN』は翌年の10月に終わるんですが、その頃にニッポン放送とすごい揉めたんですよ。

これは石橋貴明さんも公言しているから話してもいいと思うんですけど、『とんねるずのANN』の最後は揉めて終わっていくんです。だから、ずっと録音だったんですよ。僕が槇原さんの現場に行っても、ずっと大好きなとんねるずさんはいなくて(笑)。で、最終回だけ生放送でやったんです。本当にとんでもない空気でした、ニッポン放送が。厳戒態勢だったというか、大人が何人いたかわからないぐらいで。それが僕の中で強烈に残ってますね。

■「最初にお笑いをやれなかったのはよかった」

――鈴木さんがニッポン放送に紛れ込んだのは19歳の時でした。当初はノーギャラだったとか。

1年ぐらいノーギャラだったんじゃないかな。

――末席とはいえ、実際に放送作家になってみて、自分が想像していたものとの違いはありました?

自分が企画を出していても、イメージに筋肉がついていかないという感じですかね。戦い自体はイメージできているんだけど、筋肉がついていかないというのはありました。そういう部分で言うと、ありがたかったのは、自分が1番やりたかったものを最初にやれなかったこと。

本当はお笑いの番組がやりたかったんですけど、最初に関わった槇原さんはミュージシャンのラジオだったし、邦子さんも大人の恋愛リクエスト番組だったので。そこでかなり鍛えられましたから、最初にお笑いをやれなかったのはめちゃくちゃよかったと思います。

――山田邦子さんの番組は、放送後の打ち上げが毎回すごかったそうですね。

毎週、全員で焼き肉やしゃぶしゃぶに行ってました。そのあとは、六本木に黒沢年雄さんが経営していた有名なカラオケボックスがあって、そこに行ってはみんなで歌って。当時は10円玉を100個ぐらい持って、公衆電話からタクシーを呼んだり、立って雑用をこなしたり。メチャクチャ厳しかったんですけど、今考えるといい経験をしましたね。カラオケでも、自分より10歳以上も年上の人たちが喜ぶ歌を覚えたり、勉強になりました。

■衝撃だったダジャレネタ「今でも番組タイトルに…」

――当時関わっていた『ANN』のパーソナリティには誰がいますか?

槇原さんが終わったあとに、橘いずみ(現・和)ちゃんの『ANN』をサブ作家としてやってました。橘いずみちゃんがその間に「失格」という曲がヒットして、バーンと売れたんです。彼女は1年で辞めて、そのあとに柿島伸次さんの『ANN』が始まるんです。この番組で初めてチーフ作家をやらせてもらいました。

――僕も当時、番組を聴いてましたが、ナタデココやティラミスに続くものを作ろうという企画で、「ガゼラブミラビ」という謎のスイーツを生み出したのを覚えています(笑)。

やりましたね。あの番組の中に「Dリーグ」というダジャレのコーナーがあったんですよ。毎週テーマを決めていたんですが、「家電」がテーマの週に、「サミー電気椅子Jr.」というネタを書いてきた人がいたんです(笑)。「サミー・デイヴィスJr.」と「電気椅子」を引っかけたネタで、僕はそれを読んだ時にまさにしびれたんです。

家電って言っているのに「電気椅子」を選ぶセンスに加えて、サミー・デイヴィスJr.をチョイスするにはある意味、インテリジェンスがいるわけじゃないですか。柿島伸次さんが「サミー・電気椅子Jr.~!」って言った瞬間をいまだに覚えているんです。

だから、今でも番組タイトルにダジャレを入れたりしてます。『帰れま10』や『帰れマンデー見っけ隊!!』もそうなんですけど、番組のタイトルにダジャレを入れたほうがヒットするという法則があるんですよ。結局、日本人はダジャレが好きみたいなのがあって。それを自分の中ですごく意識しているのも、あの時の「サミー電気椅子Jr.」の影響があると思います。

――『橘いずみのANN』では、ひどいシモネタを送ってきたリスナーに朝5時の番組終了直前に電話で叱る企画がありましたよね。ただ、当時は携帯電話が一般的じゃなかったんで、自宅に電話したらリスナーの親が出て大変なことになっていた記憶があります。

「喝!」ってやつですよね。橘いずみちゃんの時にはノベルティで下敷きを作って。なぜそうなったのかは忘れちゃったんですけど、そこにはかけ算の九九が書いてあるんですよ。それで、「サザンがオールスターズ」みたいに、九九の中にボケがいっぱいあるみたいな。僕がその担当になって、めっちゃ考えたんですよね(笑)。

かけ算九九のほとんどでボケているんで、地獄の作業でしたけど、ああいうのはいいですよね。当時はお金がなくても全然つらくなかったです。とにかく大人に認めてもらえることが大きかったし、自分が考えたものが誰かの口を通して伝わっているという実感を得られましたから。

■松村邦洋との思い出「僕があまりにも疲れてて…」

松村邦洋

――半年間芸人として舞台に立っていた時代にお世話になった松村邦洋さんの『ANN』も担当されていたとか。

1部になってから関わったんですけど、最初のスペシャルウィークに、中森明菜さんが来たんですよ。それで中森さんが作ってくれたおにぎりを松村さんが食べるという企画をやったんですけど、実際はスタッフが作ったんです。その中に釘を入れて(笑)。で、松村さんが「オイッ!」って言ってたのはすごく覚えています。

あと、僕があまりにも疲れてて、松村さんの横で放送中に寝てしまった時があるんです(苦笑)。それで、オンエアしている最中に「鈴木君! 起きてくれよ! そんなに俺のしゃべりは面白くないか?」って言われて。そこから面白くなって、CM毎に寝るなんてことをやりました。たけしさんの『ANN』を全部書き起こしてそのままやるという『ほぼビートたけしのANN』も伝説になりましたよね。松村さんは恩人です。