ラジオ業界に関わる様々な人を掘り下げる連載「ラジオの現場から」。今回登場するのは、文化放送の太田英明編成局長だ。1986年の入社以来、アナウンサー一筋だったが、昨年10月付けで編成局長に就任。番組内で辞令が発表されるという前代未聞の出来事が話題になった。

編成局長としてどんな番組を作っていくのか。その姿勢を掘り下げるためには、まず本人の人となりを知る必要がある。そこで今回は太田氏のラジオ歴を紐解いてみたい。文化放送に入社した直後から異例の抜てきを受けて、太田氏は様々な番組に関わっていく――。

■ニッポン放送をよく聴いていた学生時代

  • 太田英明氏

――ここからはリスナー時代からの太田さんのラジオ歴をお聞きしたいんですが、最初にラジオに触れたのはいつですか?

子供の頃、大して体の調子が悪くないのに、学校に行きたくなくて、熱があると言ってずる休みしたんです(笑)。でも、布団の中に入ったものの、別に体調が悪くないから寝られない。暇で暇でしょうがなかったときに、近くにあったラジオをつけたのがたぶん最初の経験だったかなと思います。

――まだテレビが子供部屋にない世代ですよね。どんな番組を聴いたか、記憶にあります?

どの局を聴いても、ゴールデン・ハーフ(70年代前半に活躍した女性アイドルグループ)の曲が流れてきて、「この曲って流行っているんだなあ」と思った印象がありますね。例えば、日曜日の朝はダラダラとゆっくり寝ていられるんで、他局で申し訳ないですが、ニッポン放送さんの『不二家歌謡ベストテン』やくず哲也さんの『日曜はダメよ』といった日曜日の午前中のラインナップを聴いていました。

――当時、文化放送を聴いた経験はあったんですか?

子供の頃は神奈川に住んでいる時期が長かったんですけど……ニッポン放送でしたね(笑)。野球も好きだったので、『ショーアップナイター』もよく聴いていました。

――世代的には深夜ラジオの全盛期にぶつかっていると思うんですが、学生時代に聴かれていました?

中学生の頃は笑福亭鶴光さんの『オールナイトニッポン』が流行っていましたね。学校で「昨日こうだったね」とよく話していました。夜遅い時間帯はほとんどラジオに触れてなかったんですが、もっと早い時間帯の『くるくるダイヤル ザ・ゴリラ』などは聴いていましたね。

■文化放送入社も「ほとんどイメージがなかった(苦笑)」

――そこから、どういう経緯でアナウンサーを志したんですか?

単純なミーハーだったんで、もともとは「テレビ局のアナウンサーになりたい」と志望していたんです。ただ、各局の試験を受けたんですけど、ご縁がなく、最終的に採用されなくて。で、文化放送には縁あって入れていただけたので、ラジオ局のアナウンサーになりました。

――聞きづらい質問ですが……文化放送に受かった段階で、この局の番組は聴いたことあったんですか?

申し訳ないんですけど、ほとんどイメージがなかったですね(苦笑)。ただ、吉田照美さんのワイド番組『てるてるワイド』は当時勢いがあったので、その印象はありました。

――86年に文化放送に入社されたわけですが、新人時代に味わった苦労で印象に残っていることはありますか?

どういうわけか、最初から変な教育を施されていて……。

――変な教育(笑)?

はい。ニュースやスポーツのような王道ではなく、一般番組で使おうという局側の方針があったみたいで。入社1年目は、車掌の格好をして山手線の車内に乗り込んで、観光案内するというのが仕事というか、研修というか。

――アナウンスの仕方や発音を習うんじゃなく?

そうですね。度胸をつける意味合いと、話題作りということでやっていました。あとは、歩行者天国に行って、周りはバンド活動をやっているところで「お前は紙芝居をやれ」と言われて、紙芝居をやったり。それ以外だと宿直勤務という感じで、「放送局ってすごいなあ」と思っていましたね。

――アナウンサーのイメージとは随分違いますね(笑)。太田さんについて調べたところ、若手時代に局のポスターにも起用されたとか。

今はだいぶ小汚くなってしまいましたが(笑)、当時はビジュアルもいいと言われていたんです。ロックブームの時は、ロックミュージシャンのように髪を立てて、ジャケットを着て、ショールを巻いて。そういう写真は2、3種類撮りましたね。スポンサー絡みだった部分もありますが、ちょうどバブルの頃だったので、そういうこともたくさんありました。