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初恋、結婚、就職、出産、閉経、死別……。
人生のなかで重要な「節目」ほど、意外とさらりとやってきます。
そこに芽生える、悩み、葛藤、自信、その他の感情について
気鋭の文筆家、岡田育さんがみずからの体験をもとに綴ります。
「女の節目」は、みな同じ。「女の人生」は、人それぞれ。
誕生から死に至るまでの暮らしの中での「わたくしごと」、
女性にとっての「節目」を、時系列で追う連載です。
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おめでたいいね!

SNSって恐ろしいな、と思う瞬間は一年に何度も何度も訪れるわけであるが、もう10年以上Facebookを使ってきて最も戸惑うのは、やはりフレンドからのあの報告である。

「本日ー! 妊娠していることが判りましたー!(顔文字)」

……どうしろっちゅうねん……。産婦人科帰りの異様なハイテンションに頭を抱えながら、とりあえずそっと「いいね!」を押しておく。コメント欄には「おめでとう!」「おめでとう!」「よかったね!」「お祝いしなくちゃ!」の嵐。何か一言、書くべきなんだろうが、身構えてしまって言葉が見つからない。赤ちゃんはいつから「おめでとう!」と言われる存在になるのだろう。生まれた命を祝福するのなら、生まれてきてからでも遅くないと思うけど。

私が小学生のとき、母親が流産した。ある日、学校が終わって家に帰ると、毎週みるみるふくらんで堂々たる存在感を放っていた母のお腹が元通りに戻っており、「あ、赤ちゃんね、ダメだったのよー。残念だけど、そういうこともあるのよね」と告げられた。授かったからといって必ず無事に生まれてくるとは限らない。国語と算数の授業を受けて給食を食べて帰ってくるまでのわずか半日で、朝には「命」だったはずのものが消え失せて「無」になっている、というのは、保健体育の授業で習ったとはいえ、なかなかに衝撃的な出来事だった。

ほどなくして母はまた妊娠し、今度は無事に弟が生まれてきた。高齢出産を乗り切った両親と新生児を取り囲む「おめでとう!」「おめでとう!」「よかったね!」の嵐のなかで、おめでたくない前の流産に言及する野暮な大人は誰もいない。

気を揉んでいるのは私だけか。だってこの子も前の子と同じで、姉の私がうっかり気を抜くと途中で死んでしまうかもしれないのに。ある日学校から帰ったら、跡形もなく消えてなくなっているかもしれないのに。ずっとそんなふうに心配していた末弟も今は立派な社会人、後は野となれ山となれ。私は「子の無い人生」のまま、そろそろ母が末弟を産んだ年齢を超えようとしている。

節目は急に止まれない

小さな赤子が周囲の人々の運命をがらりと変えていくそのパワーは、すさまじい。十月十日で無から有が発生し、「一時停止」や「早送り」「巻き戻し」ボタンを押すことは叶わぬまま、分身のようでありながらまったくの他者であるその存在に、大人たちは振り回されながら生き続けることになる。自分の人生は自分一人のものではなかったということに、じわじわ気づかされることになる。

まだその実感を持たぬ人々に掛ける言葉があるとしたら、せいぜいが「心してかかれよ」くらいではないのか。実際、その認識を持った友人たちはあまり大袈裟に妊娠を公表しないし、出産休業ギリギリまで黙々と働いている。「休業」というのは会社組織側の視点で、当人たちにしてみれば実質この期間から「業」が激増するわけだし、そもそも悪阻がひどくてそれどころじゃなかったよ、「いいね!」集めるより保活の情報収集が先だよ、という話も聞く。

新しい人生に一歩を踏み出す、その「節目」の報告としては同じかもしれないけれど、「子供ができました」が「大学受験に合格しました」や「オーディションの最終選考に残りました」と同じように祝われる光景には、違和感が残る。といって、祝賀ムードのコメント欄に「浮かれるなよ! ここからが大変なんだぞ!」と水を差したいわけでもない(見るからに育児を妻に任せきりにしてたようなオッサンが上から目線でそう書き込んでいるのはよく見かけます)。

「子を授かり、産む」という営みが、もうちょっとだけ粛々と進み、たとえ途中でうまくいかなかったとしても、「節目」で下したそれぞれの勇気ある決断こそが称えられる、というふうにならないものかしら。その時がいつ訪れるかは「コウノトリのご機嫌」に委ねられている。入学試験のように一斉に取り掛かるものでもなければ、努力だけで成果が出るものでもない。

欲しいものは、何?

「女の人生」を歩んでいると、「子供を産まない人生よりは、産んだ人生のほうが、よいよ!」ということを、手を替え品を替え、言われ続けることになる。私も子供と接するのは大好きなので、彼ら彼女らの言わんとすることはわかる。どうやら私の問題は、たとえ自分の産んだ子供でなくとも無条件に大好きすぎることにあるようだ、ということも、次第にわかってくる。

「自分で産む」という経験や、「遺伝子を継承させる」「血を絶えさせない」といったことにこだわる人たちとは、そこで意見が分かれていく。「あなたの子供はきっとあなたに似て素敵に育つに違いない、それを(私が)見てみたいから、ぜひ産んで!」と言われたところで、果たしてこの要望に答える義理が私にあるんだろうか。愛しい我が子に人生を振り回されるのは大歓迎だが、外野に振り回されたくはない。

また、内なる気持ちに耳を傾けてみると、子供が好きだから子供を取り巻く大いなるサークルに属していたい、その入場許可証として私も我が子の一人や二人は持っておきたい、というのも、なんだか本末転倒な気がする。よそんちの子を抱かせてもらうとその瞬間には「私も! 私も!」とめちゃめちゃ子供が欲しくなるが、そうした「所有欲」だけで子を成そうとするのはただのエゴではないのか、と帰り道はいつも自問してしまう。

未婚のままたくさんの生徒を育てた教育者もいれば、養子を迎えて平穏に暮らす同性カップルもいる。家庭の育児にはまるで役立たずのオッサンでも、仕事では優秀な人材を養成して社会に貢献しているかもしれない。より良き世界を次世代へ託そう、という使命があるときに、「産む」の有無(ダジャレです)は、そんなに大きなことなんだろうか? 私にはまだ、その違いがわからない。

分かれても同じ道

「あー、うっさいなー、そんなん、産めばわかるよ、産めば! 見る前に跳べ!」と、経産婦は言う。人生を大きく変えるような「節目」をいくつか通過してきた私には、彼女たちの主張が、頭では理解できる。しかしそれでもなおブツクサ言いたくなるのは、彼女たちの「子を産んだ人生」にケチをつけるためではなく、もう一つの選択肢、「子を産まなかった人生」を否定したくない、という気持ちからである。

産まなかったら産まなかったで、それでも十分楽しい人生を生きていけると、思っていたい。私は子を産むためだけに生まれた動物であり、生殖器の周りに肉と骨を盛ってヒトガタに形成された機械であり、その役目が果たせなければこの世に享けた命にはまったく意味がなかった、というわけではないと、思っていたい。この命だって昔、ただ生まれてきただけで「おめでとう!」と祝福されたはずなのだ。

35歳を超えた私は、これからもし子供を産むとしたら自動的に「高齢出産」となる。まずは婦人科に相談して医学的検査を受け、不妊治療を受けるところから始めるべき年齢に達している。「子供を作らないで生きるのだ」と積極的な意思を持つ以外にも、「赤ちゃん、ダメだったのよー」が降ってくるケースは、いくらでもある。まるでおめでたくない状況での妊娠だってあるし、母体を守るために「産まない」決断が下されることもある。どの道を歩むことになっても、あるがまま受け容れたいと考えるのは、そんなに奇矯なことだろうか。

「結婚してるの?」の次に来る質問は「子供はいるの?」、これはどうやら万国共通であるらしい。違うのは、「いない」と答えたときのリアクションだ。「そうなの、うちは二人いてね、上の子が高校生で下の子は……」と話す先輩たちにおかれましては、どうかとことん晴れやかな顔をしていてほしい。我々の道は二つに一つの鏡合わせ。向こう側を歩むあなたが笑顔なら、私もきっと笑顔でいられる。

<著者プロフィール>
岡田育
1980年東京生まれ。編集者、文筆家。老舗出版社で婦人雑誌や文芸書の編集に携わり、退社後はWEB媒体を中心にエッセイの執筆を始める。著作に『ハジの多い人生』『嫁へ行くつもりじゃなかった』、連載に「天国飯と地獄耳」ほか。紙媒体とインターネットをこよなく愛する文化系WEB女子。CX系の情報番組『とくダネ!』コメンテーターも務める。

イラスト: 安海