どれだけ月日が経とうと記憶から消えることのない東日本大震災、まだまだ復興支援が必要な熊本地震、そして今年猛威をふるった西日本豪雨。『災害大国』と呼ばれる日本では、毎年のように自然災害が起こり、それと同時に多くの人々が助けを必要としている。

ニュースで被災地の惨状を目の当たりにし、「自分も何か力になれないか」と考える人は多いだろう。しかし、忙しい日々に追われ、自分の生活で精いっぱい……と一歩を踏み出せずにいる人もまた多いはず。

  • 被災地で新聞を作る、岩元さんの想い

    「石巻復興きずな新聞舎」代表・編集長の岩元暁子さん

この連載では、東日本大震災の被災地をはじめ、さまざまな形で社会奉仕に繋がる活動を行う人々を取材。彼らの想いを通じて『人のために働く』ことの意味に迫っていきたい。第6回は、仮設・復興公営住宅に向けて新聞を発行する、「石巻復興きずな新聞舎」代表・編集長の岩元暁子さん。

休刊の危機も乗り越えて……

「新聞を辞めるなんて、仮設に暮らしている俺たちを見捨てるのか!」

これまで1回の休刊、1回の終刊を余儀なくされた「石巻復興きずな新聞」。被災者たちにとってまだまだ先が見えない時期だった2013年3月、仮設住宅に暮らす方々に新聞の終刊を伝えると、ひとりの住民がそう言って事務所に怒鳴り込んできたこともあったという。

「もともと新聞は、私も参加していた『ピースボート災害ボランティアセンター』から発行されていたのですが、新聞の発行にはお金も時間も人員もかかるので団体としては続けていくのが難しいという判断が下されたことがありました。でも、読者の方々にアンケートをとってみると、8割以上の方から『新聞を続けてほしい』という声が集まったんですよ。こんなに新聞を想ってくださる方がいるなら続けたい。では、続けていくにはどうしたらいいのか。悩みに悩んだ末、『みんなに手伝ってほしい』と地元の方々に協力をお願いすることにしたんです」

地元のボランティアに協力をお願いし、記事の作成や配布などを分担することで、なんとか発行を継続できるようになった。その後、震災から5年という節目を迎え、ピースボート災害ボランティアの現地支援終了が決定。それと同時に、岩元さんは『石巻復興きずな新聞舎』を設立し、現在も月1回の新聞発行を続けている。

現地ボランティアから新聞発行へ

現在、3代目の編集長として新聞発行に尽力する岩元さんだが、話を伺ってみると、もともとは都内で外資系企業に勤めており、新聞製作や記者の経験はもちろん、ボランティア経験さえほとんどなかったというから驚きだ。

「東京で勤めていた会社は外資系企業ということもあり、日本では珍しい『ボランティア休暇』という制度があったんです。一度、それを利用してボランティア体験をしたことがきっかけで『これからは社会貢献に繋がる仕事がしたい』と強く想うようになり、それから会社を退職して青年海外協力隊に参加しようとしていた矢先、東日本大震災が起こりました。それで2011年4月にはピースボートを通じて現地に入り、災害のボランティア活動を始めました」

当初、1週間の予定で現地入りしたそうだが、ひょんなことから2週間滞在することになり、その後も定期的に石巻と東京を行き来する生活が始まったという。

「最初は1週間の予定だったのですが、ちょうど翌週がゴールデンウィークとあって約700人のボランティアが現地にやってくることになっていて、担当の方に『右も左もわからない人たちが700人も集まるというのはかなり混乱してしまうはず。少しでも現地のことがわかる人は残れるなら残って欲しい』と言われ、私は残ることにしたんです。その後、9月以降は避難所がなくなって仮設住宅の支援にシフト。このときに『孤独死を防止する』という目的のもと新聞が発行されたのですが、当時の私は工場支援を担当していたので、まったく新聞に関わっていなかったんですよ」

しかし、パソコンの扱いやメール文章の作成にも慣れていた岩元さんは、「新聞作成に適任だ」という話が団体で持ち上がり、新聞発行に携わることになった。

「正直、初めはすごく嫌でした。今まで東京でデスクワークをしてきたのに、なんで石巻でまたパソコンをカタカタしないとダメなんだ! って(笑)。でも、いざ取材や記事を書いてみると、すごく楽しかったんですよ。完成した記事に対しても読者の方々がすごく喜んでくださって、とてもやりがいを感じました」

その後、休刊や終刊など継続の危機に見舞われたものの、読者である住民たちの厚い支持もあり、岩元さんは石巻市内に事務所を構え、ボランティアのスタッフたちとともに日々、新聞発行に熱を注いでいる。

新聞を通じて被災者たちの『心を支えたい』

地元の住民たちから愛される「石巻復興きずな新聞」。その発行には、大きく4つの目的がある。「新聞発行を通じた、情報発信による住民の自立促進」、「新聞配布を通じた、訪問・傾聴・見守り活動による心のケアとつながり作り」、「地元ボランティア育成を通じた、地域支え合いの仕組みや生きがい作り」、「県外ボランティアの受け入れを通じた、震災の風化防止」だ。

  • 岩元さんが編集長を務める「石巻復興きずな新聞」

「仮設住宅への入居は抽選でしたので、これまで慣れ親しんだご近所さんとは離れ、知らない人と隣同士で暮らすことになります。また、石巻市は市町村合併によって、とても広い地域がひとつの市にまとめられていますので、同じ市内だからといって『同じ地元』という感覚の方が意外と少ないんですよ。そのため、コミュニティが崩れてしまったり、孤立してしまったり、引きこもってしまったり……という方が大勢いました。そんな方々の心の支えになれればというのが一番の想いです」

現在では地元の方々の協力のほか、年間200人もの県外ボランティアが新聞発行を手伝ってくれているという。そうした多くの人との繋がりが震災の風化防止や地域支え合いの仕組みなど、さまざまなメリットを生んでいる。

「新聞は『手渡し』で配布しているということも特徴です。刷り上がったら一軒一軒の住宅を回り、手で新聞を渡していきます。もちろん、すごく手間がかかることではありますが、このときに住民の方々とお話をし、繋がりを作ることも大切な役割だと考えています」

他県からボランティアにやってきた学生たちは皆、被災者の方々の声を直接聞くことでき、とても貴重な経験になったと話す。休刊の話が持ち上がったときには他県の学校などからも「続けてほしい」と切望されたそうだ。

新聞発行の源は、住民たちの『笑顔』

「実は、新聞を続けたくても続けられないというジレンマに思い悩んで、東京にいたときに体調を崩して倒れ、救急車で運ばれたことがあったんですよ(笑)」

岩元さんは、そう笑いながら話してくれたが、現在に至るまでの道のりは実に険しかったはず。彼女が、そうまでして新聞発行を続ける理由は何なのか。

「ふたつあります。ひとつは一緒に頑張ってくれる仲間がいること。どんなに意義のある活動も、ひとりでは続けることができませんから。もうひとつは、やはり住民の方のためです」

「震災から間もない頃は、毎日泣き暮らしている方が大勢いました。そんな方々のお宅に新聞を持って訪問すると、亡くなったご家族のことをお話してくれるんです。何度訪問しても、いつも同じ話を。でも、繰り返し話をすることで少しずつですが、前を向けるようになってくるんですよ。今では、訪問すると笑顔を見せてくれる方がたくさんいます。たまに『あのとき、話を聞いてくれる人がいたからよかったんだよ』って言ってもらえると、改めてやっててよかったなと思いますね」

復興公営住宅の建設と移住が進み、現在も仮設住宅で暮らす方々は僅かとなっている。そのほとんどが、今まさに引っ越し作業を進めている方、住宅建設を待っている方だという。今後、岩元さんの活動はどう変わっていくのだろうか。

  • 石巻市内には、今なお多くの仮設住宅が点在している

「以前、知り合った新聞記者の方に聞いたのですが、阪神淡路大震災の21年目の追悼行事を取材した際、ひとりの被災された女性と出会ったそうです。その方はご自身が21歳のときに被災し、お母さまを亡くされ、ずっとその事実を受け入れられずにいたとのことでした。でも、震災から21年目となり、お母さまと一緒に過ごした21年、お母さまのいない21年がちょうど半々になった。これからはいない年数の方が増えていく。そろそろ受け入れないとダメだと思い立ち、やっと初めて追悼行事に顔を出すことができたそうです」

東日本大震災から今年で7年。まだ7年、と言った方がしれない。「まだまだ心のケアが必要な人が大勢いることには変わらない」と岩元さんは語る。

「もともと『最後のひとりが仮設住宅を出るまで続ける』というのは決めていたことなので、そこまでは続けたいと思っています。そのあとは……まだ決めていないですね。でも、もし将来的に石巻を離れることになったとしても、自分にとって特別な場所であることは変わりません。きっと何十年経っても、帰ってくる場所だと思います」

※取材協力:ヤフー