2019年4月30日に幕を下ろす「平成」。マイナビニュースでは、「平成」の中で生み出されたエンタメの軌跡をさまざまなテーマからたどる。この「平成テレビ対談」は、「バラエティ」「クイズ」「ドラマ」「ドキュメンタリー」「音楽番組」「アナウンサー」という6ジャンルで平成に活躍したテレビマンたちが登場。平成のテレビを振り返りながら、次の令和時代への期待を語り合っていく。
「音楽番組」からは、フジテレビで『HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP』『FNS歌謡祭』などを手がけてきたきくち伸氏と、NHKで『NHK歌謡コンサート』『NHK紅白歌合戦』などを手がけてきた山田良介氏。後編では、東日本大震災という未曾有の災害時に音楽番組が果たした役割や、音楽業界のレジェンドにまつわるエピソードなどについて話してもらった――。
■草なぎ剛以上の適役はなかった
――平成の30年の中で、東日本大震災という大きな出来事がありましたが、それを受けて『FNS』ではすぐに特番(11年3月27日『FNS音楽特別番組 上を向いて歩こう~うたでひとつになろう日本~』)を生放送しましたよね。あれはどのように判断して実現したんですか?
きくち:私が岩手出身だったのが大きいと思います。震災が起きたときは、『新堂本兄弟』のゆずのゲスト回のプレビュー中だったのを覚えています。当然その日の夜の『僕らの音楽』、翌日の『MUSIC FAIR』、プレビューしていた『新堂本兄弟』も飛んだ(休止になった)んですが、翌朝、小林武史さんから電話があったんです。小林さんも山形なんで「きくちのとこ、大丈夫なのか?」と言われて。そしたら、(フジテレビが中継する予定だった『世界フィギュア』が中止になった)3月27日にミスチル(Mr.Children)が仙台でコンサートをやる予定だったと聞いて。一方で、私は『松任谷由実のオールナイトニッポンTV』という番組も担当していて、3月27日が収録日で、ユーミンさんのスケジュールを持ってる日だったんですよ。この2組がいたらと思って港(浩一、当時・バラエティ制作担当局長、現・共同テレビ社長)さんと相談したのが始まりです。
――そこから、短期間でアーティストと交渉していくんですね。
きくち:ミスチルは出られなかったんですけど、小田和正さんのマネージャーさんと話していたら、「せっかく放送しても被災地ではテレビがない人は見られない」と言われて、自分が中学校のときに岩手でニッポン放送を聴いていたのを思い出して、ラジオの同時放送も思いついて、ニッポン放送が同時生放送してくれて、深夜に東北3県のラジオ局が放送してくれました。本当に突貫作業でしたが、自分のためにやったようなところもあったので、生放送が終わったときに、出演者の皆さんの前で「今日は来てくれて、本当にありがとうございます!」って泣きじゃくっちゃって。あるアーティストの方は茨城に住んでいたのですが、近所の家が被災して亡くなられたというのもあって、参加できる精神状態じゃなかったといったことも分かって、アーティストの皆さんもいろいろ事情があったんですよ。それでも、54組交渉して27組が参加してくれましたからね。
――司会は当時SMAPの草なぎ剛さんと、高島彩さんでした。
きくち:草なぎくんは2005年の春から『僕らの音楽』のナレーションをやってもらって、そこから『FNS』も高島彩とやってもらっていたんです。被災者へのメッセージをFAXで募集したんですが、草なぎくんはFAXの読み方がとても素敵なんですよ。微妙に感情を込めない感じなんですが、ああいうのは気持ちを入れ過ぎちゃダメなんですよね。だから、あれ以上の適役はなかったと思います。
山田:それが『ブラタモリ』のナレーションにつながったのですかね。
きくち:『ブラタモリ』の草なぎくんも大好きですね。あの番組はすごい見てます。すばらしいです。
――NHKさんでも震災を受けて音楽特番をいろいろやっていましたが、山田さんはどんな番組を担当されましたか?
山田:実はその年の4月に「BSプレミアム」が開局するということで、3月の終わりに開局スペシャル的な番組をやる予定でした。僕らは代々木体育館でポップス、スタジオで洋楽と演歌を扱う音楽特番を4~5時間やる予定だったんですが、海外のアーティストの来日が難しくなり、企画が流れそうになってしまったんですね。でもそのときに、アイアン・メイデンやスティングといったアーティストたちが、率先して応援メッセージを発信していたんです。そこで、そのメッセージVTRを集めたり、シンディ・ローパーが震災直後に行ったライブを紹介するなどして、突貫で洋楽の特番を作りました。ウドー音楽事務所をはじめ、メーカー各社がいろいろ対応してくれたのを覚えています。
■戦後歌謡史を一番知るジャニー喜多川氏
――お互いのご担当ではない番組で、印象的な平成の音楽番組はなんでしょうか?
きくち:『ミュージックステーション』(テレビ朝日)とはずっと仲良しで、山本たかおさん(現・エグゼクティブプロデューサー)とはチーフディレクターになるくらいから付き合いがあります。私はディレクターだったんですけど、レコード会社に問い合わせて資料を集めたり、スケジュール押さえたりというアシスタントプロデューサーの業務もしてたんですね。きっかけは覚えていないんですが、『ミュージックステーション』のスタジオに行くと、そこにジャニー(喜多川・ジャニーズ事務所社長)さんとか長戸(大幸・ビーインググループ創業者)さんとか、会いたい人がまとめていたので、通うようになったんです。後に『HEY!HEY!HEY!』のトークがきっかけでPUFFYがテレ朝で『パパパパパフィー』を始めて、その収録にも毎回行って、たかおさんに「入構証作れば?」って言われて申請してみたけど、さすがに通らなかった(笑)
――『Mステ』のスタジオはそんな感じだったんですね。
きくち:ジャニーさんはよくテレ朝の食堂にいて、Jr.のメンバーたちにアイスを買ってあげていたので、私も一緒になってご馳走になったりしました(笑)。『HEY!HEY!HEY!』にジャニーズのアイドルがいっぱい出るようになって、来るたびにジャニーさんのことをしゃべるのをダウンタウンさんが面白がって、ジャニーさんにまつわるトークだけを集めた「レジェンド・オブ・ジャニーさん」というDVDを作ってジャニーさんにプレゼントして、「番組に出てください」ってお願いしたこともありますよ。結局出てもらえませんでしたが。
山田:現在、戦後歌謡史を一番知っている方ですよね。どういうふうに今の芸能界が出来上がってきたのかを知っているし、戦後の混乱からどのように今に至るか体験しているのが、いまやあの方だけですから。BSプレミアムで『ザ少年倶楽部』という番組があって、その現場にいらっしゃる際に、往年の振付家の話とか、当時の体験談を拝聴しています。
きくち:ジャニーさんはプロデューサーでもあるけど、クリエイターなんですよね。ジャニーさんは天才だから、電話で打合せをすると話題が飛んだときに一瞬分からなくなることもよくありました。あと、ジャニーさんはよく、KinKi Kidsの大阪ドーム公演で警備員に止められた話をしますよね。「PASSがなければ自分がジャニーだと言っても入れてくれないのは、警備員としてちゃんと仕事をしてる」って褒めてましたよ(笑)
――山田さんは印象に残っている平成の音楽番組、いかがですか?
山田:フジテレビさんは平成の最初、深夜に音楽番組をめちゃくちゃ作っていましたよね。「アンプラグド」でどんな演奏もアコギでやるっていう『WOOD』とか、ギターに特化した『寺内ヘンドリックス』、レッド・ツェッペリンだけをネタにした『レッド・ツェッペリン』とか(笑)。自分の志向に合った番組ばかりだったので「こんな音楽番組作れるんだ! フジテレビってすごいなあ」と、うらやましがっていました。
きくち:フジテレビの深夜が良かった頃ですね。でも、それを今ゴールデンで堂々と流しているのがNHKのEテレですよね。『バリバラ』とか、どれもすごくて、NHKっぽい番組もあればそうじゃないのもある。多様性があって、エンドロールを見るとみんな演出家が違うので、どんだけ人材がいるんだ!って思います(笑)