21世紀はあっさりやってきた。2000年問題が世間をざわつかせもしたが、幸い大事は起きないまま2000年が到来し、2001年を迎えることになった。21世紀は未来の象徴として長らく語られてきたが、到来してみればそれは昨日と地続きの"今日"だった。
▼子どもの中にある、未来という思想
2001年に公開された『映画クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』は劇場版第10作。『映画クレヨンしんちゃん』の多くは、少々奇妙な悪役や悪のの組織が登場し、野原一家がの陰謀に巻き込まれるという趣向で展開する。『オトナ帝国』にも「イエスタデイ・ワンスモア」という組織が登場する。
イエスタデイ・ワンスモアは、ようやく訪れた21世紀がかつて夢見られた21世紀ではないことを憂い、大人たちを懐かしい時代(主に昭和30年~40年代)の虜にしてしまおうという組織だ。この作戦の一環として建設されたのが、当時の町がまるごと再現されたテーマパーク「20世紀博」である。野原一家も「20世紀博」を訪れた後から父ひろしと母みさえの様子がおかしくなり、心が子供に戻ってしまう。かくしてしんのすけは両親をイエスタデイ・ワンスモアから取り戻すために奮戦することになる。
イエスタデイ・ワンスモアは、親たちを虜にするために「懐かしい匂い」を使う。この匂いの本質は、郷愁を全面的に肯定する思想だ。イエスタデイ・ワンスモアは、この思想によって世界を変えようとしているのである。
しかし、この思想は、ひろしの足の臭いというリアリズムによってほころびが生まれ、最終的には、しんのすけの「オラ、大人になりたいから……大人になってお姉さんみたいな綺麗なお姉さんといっぱいお付き合いしたいから」というセリフによって敗れる。しんのすけが体現したのは、郷愁をもてるほどの過去を持たない子どもの中にある、未来という思想である。
イエスタデイ・ワンスモアの首謀者はケンという男で、ケンの側には常にチャコという恋人がいる。ふたりは同棲しており、子どもはいない。どうしてふたりはケンとチャコなのだろうか。ケンとチャコは、子供向けドラマ『ケンちゃん』シリーズに出てくる兄妹の名前である。同じ昭和時代でも、恋人関係ならケンとメリーのほうが自然だ。
不自然なこのふたりが、どういう経緯でイエスタデイ・ワンスモアを立ち上げたのか作中では具体的には書かれていない。しかしイエスタデイ・ワンスモアにまつわる細部をつなぎ合わせていくと、不自然だからこそおぼろげに浮かびあがるものもある。
たとえば"懐かしい匂い"はケンが作り出したといわれ、ケン自身は「手に入れた」と語っている。一方、クライマックスでは、二十世紀博の町で暮らす大人たちの郷愁が「懐かしい匂い」を生み出しているという描写も登場する。
また作品前半でケンはイエスタデイ・ワンスモアの目的を「過去からやりなおすこと」と語っているが、後半の描写は明らかに「郷愁の世界で生きること」が目的になっている。
▼"普通"の人生を歩めなかったキャラクター
そして一番気になるのがチャコを巡る描写だ。
例えばケンに「つまらない人生だ」といわれたひろしが、「俺の人生はつまらなくなんかない! 家族がいる幸せをあんたたちにもわけてあげたいくらいだぜ!」と啖呵を切るシーンがある。この直後に怒るのはチャコなのだ。チャコは怒って「ケン、早くこいつをはやく離して」という。ケンも表情を変えるが、チャコのほうがはるかに感情的だ。
そしてイエスタデイ・ワンスモアの計画が失敗に終わった時、ケンは素直に負けを認めるが、チャコは怒りとも絶望ともつかない表情で「私、外にはいかないわよ」と言う。ケンは頷いてそれを受け入れ、ふたりは身を投げようと外へ出る。しかし、ハトに出鼻をくじかれ2人は死ぬことができない。張り詰めた感情が途切れたチャコが座り込んでしまい「生きたい」とつぶやいた時、ケンはその言葉も受け入れる。
こうしたシーンをパズルのようにつなぎ合わせてみると、なにやらバックストーリーのようなものが見えてくる。
ケンの動機はチャコにある。チャコのために全てを行っているからこそ、チャコが死にたいといったら受け入れ、生きたいといっても受け入れる。「懐かしい匂い」という思想で世界を変えようと思ったのも、きっとチャコのためなのだ。
では、なぜチャコのために世界を変える必要があるのか。ひろしへのリアクションから、チャコは家族に対して複雑な思いを持っているらしいことが想像できる。ケンとチャコという兄妹の名前であるのも、やがて家族になるかもしれない恋人ケンとメリーをあえて否定しているかのように見える。そして家族であることから距離をとっているため、そこにはしんのすけのような子ども=未来も入り込んでこない。
こうして考えると、最初に生まれた「懐かしい匂い」というのは、チャコによるなんらかの現実の否定が発端で、ケンがそれを受け入れ、理論づけたからこそ"生まれた"のではないか。そしてその匂いは実質的に思想だからこそ、感染した人もまた、匂いの発生源となって影響範囲を拡大していく。
『オトナ帝国』で有名なシーンのひとつに、ひろしが自分の生い立ちを振り、それによって正気に返るくだりがある。父親に連れられて釣りにいった少年が、人生を経て、今度は家族で釣りに行くお父さんになっている。それは平凡だが幸福な光景だ。だがおそらくチャコとケンは、そういう"普通"の人生を歩めなかったキャラクターなのだ。だからこそ郷愁という思想が必要だったのだ。
もちろん"普通"の人生でなくても未来はやってくる。現在を否定して郷愁に生きることには限界がある。だからケンは、野原一家に負けたかったのだろう。
全国に向かって「懐かしい匂い」を撒き散らす準備は整った。その上でケンは、止められるなら止めてみせろと野原一家に宣告する。しかも、野原一家がケンの計画を阻もうと奮戦する様子をTV中継して、二十世紀の町の住人たちに見せもする。結果、それにより住人たちの心が動かされ、郷愁よりも未来を選ぶようになった結果、計画は失敗する。
ケンはたぶん"思想"が生まれた時は素直に「過去から未来を作り直す」つもりだったのだろう。郷愁を未来へ向かうエネルギーにしようとしたのだ。しかしそれは形骸化し、郷愁こそが自己目的化してしまったのだ。思想は過激化し、しかしだからこそそこに惹かれる人も増える。
こうして、チャコのためによかれと思って始めたことが、止められないところまで来てしまったのではないか。それでもチャコが幸せならよいかという思いと、こんな過激な思想はいつまでも保たないという覚悟。この引き裂かれた心が、ケンに、野原一家に運命を託すような行動をとらせたのだ。そして人々は未来に生きることを選び、ケンとチャコは去る。
このように読めてしまうことが、最初から予定されたものなのか、そう読めるように出来上がってしまった結果なのか、それはわからない。しかし『オトナ帝国』には、このように深読みしたくなるだけの"細部"があるのは確かなことだ。
『オトナ帝国』は「未来」が単なる今日になった2001年に公開された。どんな未来も到来した瞬間に単なる今日となる。では未来とはどこにもないものなのだろうか。実は未来とは、今日の中に孕まれた可能性なのだ。今日の中に何か可能性を見つけることが、明日という未来に繋がるかもしれない。それは5歳の幼稚園児が、自分が何者かになるかわからないからこそ未来を体現できるということと同じである。
そして時を扱いながら、また異なる時間感覚を扱った作品が『オトナ帝国』の少し前、まさに世紀末の1999年に放送されていた。『∀ガンダム』である。
後編はコチラ。
藤津亮太(ふじつ・りょうた)。1968年、静岡県生まれ。2000年よりフリー。Blue-rayブックレット、各種雑誌、WEB媒体などで執筆する。著書に『チャンネルはいつもアニメ』(NTT出版)、『声優語』(一迅社)、『新聞に載った アニメレビュー』(Kindle同人誌)などがある。WEB連載は『アニメの門V』(アニメ!アニメ!)、『イマコレ!』’(ニジスタ)。毎月第3土曜には朝日カルチャーセンター新宿教室にて講座「アニメを読む」を実施中。
記事内イラスト担当:jimao
まいにち勉強中。イラストのお仕事随時募集しております。Twitter→@jimaojisan12