渋沢栄一は何度も危機に陥り挫折しながらも、それを乗り越えて人生を切り開いてきました。明治になって栄一は約500にのぼる企業を設立し、財界のリーダとして日本経済の発展に力を尽くしましたが、その活動は常に「合本主義」と「道徳経済合一説」という理念に基づいていました。これは単に明治時代という過去の話にとどまりません。ここから、ウィズコロナとアフターコロナ時代の企業経営やビジネスへのヒントを探ることができるのです。

  • 渋沢栄一

    渋沢栄一

欧州で学んだ「合本主義」~資金と知恵を結集し株式会社を作る

まず「合本主義」について見てみます。

「合本」とは、多くの人が資本を持ち寄って会社を作るという意味です。つまり株式会社のことです。現在では当たり前のことに聞こえますが、明治初期にはそうした概念が存在していませんでした。当時は、江戸時代以来の豪商が経済活動の中心でしたが、彼らは家業や一族の商売を大きくすることが主眼で、他の商人とおカネを出し合って一つの事業を行うという発想はありませんでした。

栄一が「合本」という考え方を知ったのは、パリ万博参加のため欧州を訪問した時です。

横浜を出港してフランスまでの航海の途中、工事中のスエズ運河を目にし、その地球規模の壮大な工事に驚きました。しかもそれを可能にしているのが、フランスの「会社」と呼ばれる合本組織が多額の資金を集めて工事を進めていることだと知り、深く感動したのです。「1個人や1組織だけでは不可能なことでも、合本によって多額の資金を集めれば国を変えるような大事業もできるようになる。日本でも合本を実現して、近代化し経済発展を遂げることがどうしても必要だ」――これが栄一と「合本」との出会いでした。

そして約1年半にわたる欧州滞在中に、実際に活動している多くの会社を見聞し、株式会社の制度や仕組みについて理解を深めていったわけです。

「滴も集まれば大河になり、国が生まれ変わる」

帰国して大蔵省の役人となった栄一はこの経験をもとに、まず民間銀行の設立に着手しました。合本主義の考え方に基づいて、豪商の三井組と小野組に協力を要請し、両者を主要株主とするとともに広く株主を募りました。

こうして設立したのが、日本初の銀行となる第一国立銀行です。名前に「国立」との言葉が入っていますが、これは国営や官営ではなく、「国の方針に基づいて設立された銀行」という意味です。そして日本初の株式会社でもありました。

この時、栄一が株主募集のために新聞広告を出し、多くの人に出資を呼びかけました。この時の文章が残っています。少し長くなりますが、以下に引用します。

  • 渋沢栄一が出した株主募集の新聞広告

    渋沢栄一が出した株主募集の新聞広告

これを読むと、銀行設立の意義と同時に、「合本主義」についての考え方がよく表されています。「おカネを集める」という直接的な目的にとどまらず、それを通じて多くの人の知恵と力を集めて産業経済を発展させ日本を変えるという高い志が伝わってきます。まさに「合本主義」の本質と言っていいでしょう。

オールニッポンで"現代版・合本主義"~日本経済復活のカギ

この考え方は、実は現在にも通じるものです。

現代の合本主義は、株式会社設立の時点に限りません。企業が永続的に発展していくことが経済全体の基盤となるものですが、そのためには個人投資家の育成・拡大など、株式市場の健全な発展がより重要です。多くの個人が株式投資に参加することで、その資金が企業成長のエンジンとなるのです。

栄一の玄孫で、投資信託を運営するコモンズ投信の会長、渋沢健氏は「投資信託は、現代における合本主義の一つ」と指摘しています。同投信は、個人投資家から小口の積み立て投資を募り、それをもとに株式などの長期投資で運用していますが、渋沢会長は「日本全国から毎月の積立投資の『滴』が寄り集まれば、長期投資の『大河』になる」と述べています。

さらに「資金を集める」という点では、最近は株式会社という枠を超えて新しい形も生まれています。

その一つがクラウドファンディングです。インターネットなどを通じて個人から少額の資金提供を募り、それによって集まった資金でイベントや事業を展開していくクラウドファンディングは、最近では東日本大震災からの復興支援や、コロナ禍で苦しむ企業・団体への支援などの手法としても注目されています。そこには、おカネだけではなく、協力する人々の高い志や共感が込められています。いわば"現代版・合本主義"です。

特に現在のコロナ禍を乗り切るためには個人や企業、自治体、政府などが一体となって、オールニッポンの力を結集することが必要です。このように合本主義の考え方を現代に活かすことは、日本経済全体が復活を遂げるうえで一つのカギを握っていると言えるでしょう。

数多くの経済人が協力~益田孝、大倉喜八郎、浅野総一郎、安田善次郎……

さて、栄一は第一国立銀行を設立した後、合本主義の実践に邁進していきます。

それには出資者や協力者の存在が不可欠でしたが、栄一には常に多くの経済人が協力していました。その顔ぶれと設立企業の主なものを別表にまとめました。これと前回の「渋沢栄一が設立または関与した主な企業」の一覧表を併せて見ていただくと、栄一のネットワークの幅広さがわかります。

  • 渋沢栄一とともに企業などを設立・協力した主な経済人

    渋沢栄一とともに企業などを設立・協力した主な経済人

このうち益田孝はもともと栄一の大蔵省時代の後輩で、栄一が大蔵省を辞めた時に一緒に辞めた間柄です。その後、益田は三井物産の初代社長に就任して同社を三井財閥の中核企業に育て上げ、やがて三井財閥の総帥となりました。

益田はその間、栄一が手がけた会社設立の多くに協力してきました。抄紙会社(現・王子製紙)、大阪紡績(現・東洋紡)、共同運輸(現・日本郵船)、東京瓦斯(現・東京ガス)、東京電燈(現・東京電力)、帝国ホテルなどです。

また栄一とともに東京商法会議所(現・東京会議所)を設立し、会頭となった栄一の下で副会頭に就任しました。東京株式取引所(現・東京証券取引所)の設立時には主要株主として参加しました。渋沢にとっては、協力者というよりパートナーと言ってもいい存在でした。

栄一は大倉喜八郎、浅野総一郎、安田善次郎らとも協力し合いました。栄一が主導して設立した会社のうち、大阪紡績、共同運輸、東京瓦斯、帝国ホテルなど数多くの会社に、この3人は出資や発起人などの形で参加しています。

逆に、自らの事業拡大に際しては、栄一に出資してもらうなど多くの支援を受けました。彼らは後に大倉財閥、浅野財閥、安田財閥を形成し、三菱、三井、住友に次ぐ地位を築きますが、それは栄一からの支援なしには実現できなかったと言っても過言ではありません。

信頼関係で危機を乗り切る~古河市兵衛との絆

古河財閥の創始者である古河市兵衛と栄一の間には、二人の絆を物語るエピソードが残っています。

栄一が第一国立銀行を設立する際、三井組と小野組が主要株主となったことは前述のとおりですが、古河は小野組の番頭でした。ところが、同銀行設立からわずか1年後に小野組は経営破綻したのです。同銀行にとって小野組は主要株主であると同時に主な融資先でもあり、小野組への貸出額は同銀行の債権全体の約半分を占めていました。しかもそのほとんどが、契約書も担保もない、いわゆる信用貸しだったそうです。現代では考えられないことですが、まだ明治初期にはそういうこともあったのでしょう。

その小野組が破綻したのですから、同銀行も連鎖的に危機的状況となったのです。この時、古河は「銀行には決して迷惑はかけません」と約束して、小野組が保有していた米や生糸などの資産を銀行に差し出したそうです。このおかげで、同銀行は債権を回収することができて倒産の危機を免れたのでした。

栄一は後に「こういう時は、それなりにごまかすのが世の常。ところが古河氏は隠すどころか、自分から抵当品を提供した。きわめて立派で、深く感心した」と振り返っています。

この経験から、栄一は古河を厚く信用し、後に古河が鉱山開発事業に乗り出す時に資金援助をしました。これが、古河財閥の出発点となったのです。

このように、栄一と経済人との関係は単にビジネス上の付き合いを超えて、お互いに信頼関係で結ばれ、協力し助け合う関係を築いていたわけです。合本主義の真髄が、ここに表されています。

「東の渋沢・西の五代」 

ここで、五代友厚との関係についても触れておきましょう。

五代は数年前のNHKの朝ドラ「あさが来た」でディーン・フジオカさんが演じて話題になり、最近では五代を描いた映画「天外者」で、三浦春馬さんが生前最後となった映画出演として注目されました。

五代は元薩摩藩士でしたが、2人には共通点が多くありました。

まず欧州経験があること。栄一の渡欧より2年前の1865年(慶応元年)、五代は藩の命で密かに英国に渡り、欧州各国も訪問して欧州の産業経済の実情を学びました。これが帰国後の五代の活動に生きた点も栄一と共通しています。

五代はこの際、フランスの貴族との間で、1867年パリ万博に薩摩藩が単独で出品する契約を結びました。そのパリ万博に栄一が幕府の一員として参加したわけです。栄一たち幕府代表団がフランスに到着すると、幕府とは別に薩摩藩が出品していることを知って驚きます。このことによって、幕府は国際的な威信を低下させることになり、栄一たちは苦い思いを味わったのでした。

この時、五代はすでに帰国していたため、2人の接点は間接的でしたが、明治以降の2人は同じような道をたどります。五代は新政府の大阪の事実上の行政責任者となり、造幣寮(現・造幣局)の創設準備などに力を尽くしましたが、1年で辞めて民間人となり、大阪で次々と会社を設立していきました。

五代が設立した主な会社は、大阪製鋼(後の住友金属工業、現・日本製鉄)、大阪商船(現・商船三井)、阪堺電鉄(現・南海電鉄)をはじめ、紡績、鉱山、貿易など多岐にわたっています。また、栄一が東京商法会議所と東京株式取引所を設立したのと同じ年(明治11年・1878年)には、大阪商法会議所(現・大阪商工会議所)と大阪株式取引所(現・大阪取引所)を設立しました。

  • 五代友厚と渋沢栄一の共通点

    五代友厚と渋沢栄一の共通点

これらのほとんどが大阪の経済人との共同によるものでした。五代はそれを「商社合力」と呼んでいました。「商社」とは会社のこと、「合力」は合資を意味しており、多くの経済人の資金を結集して会社を作るという考えです。栄一の「合本主義」とほぼ同じです。

2人は東西にあって、一緒に会社設立や経営を行う機会は少なかったのですが、それでも協力関係がありました。その代表例が共同運輸(現・日本郵船)の設立です。同社は、当時の海運市場を独占していた三菱に対抗するため、栄一が他の経済人と共に設立したもので、五代も参加しています。

しかし五代は明治18年(1885年)、50歳で亡くなりました。もし五代が長生きしていれば、栄一との関係はもっと発展していたかもしれません。

(「下」に続く=近日掲載)