日本初の銀行など約500の企業を設立~「日本資本主義の父」
コロナ禍が続く中で、今年のNHK大河ドラマ「青天を衝け」の主人公、渋沢栄一に注目が集まっています。明治初期に大蔵省の役人から実業家に転じた渋沢栄一は数多くの企業を設立し、昭和初期まで財界のリーダーとして活躍しました。日本経済の基礎を作った「日本資本主義の父」と呼ばれており、2024年度発行の新1万円札の"顔"になることでも注目されています。
渋沢栄一がどれほどの人物だったかは、彼が設立した企業が約500社にのぼることを見ればよくわかります。その主なものをいくつか紹介しましょう。
まず、渋沢が大蔵省時代に手がけたのが官営富岡製糸場の設立です。彼の従兄である尾高惇忠が初代場長となり、1872年(明治5年)に操業を開始しました。その後、民間に払い下げられましたが、日本の紡績産業発展の中核となり、1987年(昭和62年)まで操業していました。現在、その建物は世界文化遺産となっています。
富岡製糸場の設立と並行して、渋沢は国立銀行条例を制定し、1873年(明治6年)に大蔵省を退官した後に第一国立銀行を設立、頭取に就任しました。同銀行は日本初の銀行で、日本初の株式会社でもあります。
これを機に、同条例に基づいて全国各地で銀行が続々と設立され、渋沢はそれらの支援や経営指導にあたりました。
第一国立銀行はその後、他行との合併などを経て、現在のみずほ銀行(みずほフィナンシャルグループ)となっています。
製紙、保険、海運、建設など続々~多くの経済人と協力
同じ時期には、日本初の製紙会社である抄紙会社を設立しました。日本では古くから和紙が手すき生産されていましたが、近代化に伴う紙の需要増加が見込まれることから洋紙の大量生産が必要と考えたのです。英国から抄紙機械を輸入し、東京の王子村(現在の北区王子)に工場を建設しました。この抄紙会社は後に王子製紙となって現在に至っています。
続いて、保険、鉄道、海運、セメント、ガス、電力、建設など、近代化に不可欠な産業インフラを担う企業を続々と設立していきました。そして、それら企業の株式を取引する市場が必要として、東京株式取引所も設立しました。これが現在の東京証券取引所です。
渋沢は「自分の会社を作って大きくする」という発想ではなく、多くの人と協力して会社を設立し、日本の産業全体を発展させるという考えでした。したがってそのほとんどが、他の経済人と共同で設立したもの、あるいは他の経済人に協力して設立したものでした。栄一のまわりには、協力してくれる経済人がいつもいました。これが渋沢栄一の大きな特徴となっています(これについては次回に詳しく解説します)。
こうして、何と500社にのぼる企業を設立したのですが、その多くは今日まで発展を続け、多くの人がよく知る企業です。企業だけでなく、東京商法会議所(現在の東京商工会議所)や経団連、全国銀行協会などの前身となる経済団体を立ち上げたのをはじめ、一橋大学や日本女子大の前身となる教育機関、さらには外交、文化、福祉、医療機関など幅広い分野で数百におよぶ組織を設立、または関与しトップを務めてきました。
まさに、渋沢栄一なくして日本経済の発展はなかったと言っても過言ではありません。「日本資本主義の父」と呼ばれ、新1万円札の顔になるのも頷けます。
ただ渋沢栄一の‟すごさ”は、これだけではありません。
波乱万丈だった前半生~「攘夷決行」を計画するも挫折
これまで見たように大活躍した渋沢ですが、実は彼の前半生は波乱万丈でした。この点が、コロナ禍にある現在の私たちにとって重要な意味を持つのです。
彼の前半生を振り返ってみます。
生まれは1840年(天保11年)。大河ドラマでも描かれているように、渋沢家は武蔵国血洗島村(現在の埼玉県深谷市)の豪農で、農業のほかに藍玉(藍の葉で作る染料)の製造販売なども手がけていました。栄一は幼い頃から家業を手伝いながら学問を学び、剣術の稽古にも励んでいました。 その頃の日本は長年の幕藩体制に矛盾が噴出し、全国各地で百姓一揆や打ちこわしが起こっていました。ペリーがやってきたのは、そんな時期でした(1853年)。そこから激動の時代が始まります。
こうした世情の中で少年時代を過ごした栄一は、やがて尊王攘夷思想に目覚めていきました。従兄たちや村の若者たちと熱く議論するようになり、21歳の時「このまま田舎にいるだけでは大事を成し遂げることはできない」と江戸に出ました。
江戸では、その前の年(1860年)に桜田門外の変が起きるなど緊迫した空気に包まれていました。栄一は江戸では儒学者の塾に通うとともに、江戸の3大道場の一つに数えられていた千葉道場に入門しましたが、塾や道場で勤王の志士たちと交流を深め、尊王攘夷の思いを強めていきます。
そして23歳の時(1863年)、郷里に戻っていた栄一はついに攘夷決行を決意するに至りました。栄一の自伝『雨夜譚(あまよがたり)』によると、江戸の道場や塾などの同志69人で高崎城を乗っ取ったうえで横浜に繰り出し、外国人居留地を焼き討ちにして外国人を片っ端から斬り殺すという計画でした。「決行日は11月23日」と決め、約100本の刀をひそかに買い集めていたそうですから、本気だったのです。
しかしその直前、京都に行っていた従兄の尾高長七郎が帰郷し「8月に長州藩が京都から追放される政変が起き(文久の政変)、天下の情勢は攘夷派に不利。70人ぐらいでは直ちに幕府に討伐される」と中止を主張しました。「栄一を殺してでも挙行をやめさせる」「いや、長七郎を刺してでも挙行する」と二人は激論を交わしましたが、結局、計画は中止せざるをえませんでした。
この時が栄一にとって最初の危機でした。栄一自身、「もし計画を実行していたら、自分らの首は飛んでしまったであろう」(雨夜譚)と後に回顧しています。
進退窮まり不本意ながら転身~一橋家家臣、そして幕臣へ
こうして栄一の尊王攘夷は挫折しましたが、計画が露見して幕府に追われるおそれがあるため、京都に逃れることにしました。たまたま以前から知遇を得ていた一橋家の用人、平岡円四郎の家来との名義を借りて、無事に京都に着くことできたので、京都ではその平岡をたびたび訪問し、天下の情勢について様子を聞くなど交流を深めていました。その頃はまだ尊王攘夷の思いがあったようです。
ところが京都に来て3カ月ほど経ったある日、あの計画を止めた長七郎が江戸で幕府につかまり、栄一も幕府から嫌疑をかけられていることを知ったのです。しかも平岡から急に呼び出され、幕府から栄一についての問い合わせが来ていることを告げられたのでした。
「もはや万事休すか」と進退窮まった栄一、第2の危機でした。しかし意外なことに、平岡は「一橋家の家来になってはどうだ」と言ったのです。当時、一橋家の当主だった一橋慶喜は有能な人材を求めていたところで、慶喜の側近だった平岡は栄一の能力と人柄を高く評価していたようです。
ほかに選択肢のなかった栄一はその誘いを受け、一橋家に仕えることになりました。一橋家は徳川将軍家の親戚で「御三卿」の家柄。栄一にとっては半ば敵のような存在ですから、非常に不本意な転身でした。しかしそんなことは言っていられません。一橋家の家臣となった栄一は、同家の領地の産業振興や財政改革を担当し、めきめきと頭角を現していきました。こうして第1、第2の連続的な危機を脱することができたわけです。
それから2年後の1866年、さらなる人生の岐路に直面します。慶喜が第15代将軍となり、それに伴い一橋家の家臣の多くが幕臣に移り、栄一の身分も幕臣に変わることとなったのです。栄一の気持ちは複雑でした。今度は名実ともにかつての「敵」の一員となるのですから。栄一は幕臣を辞して浪人になろうと、いったんは決意したそうです。
パリ万博に参加、欧州の先進的な経済の仕組みを学ぶ
ちょうどその時、栄一に予想外の人事が発令されました。翌年(1867年)に開催されるパリ万国博覧会に幕府が出品することになり、その代表団に随行することを命じられたのです。栄一がそれまで一橋家で行ってきた財政改革などの実績が高く評価された結果だったと言えるでしょう。これが大きな転機となりました。
万博では各国の展示会場を回って欧州の先進的な技術や文化についての知識を吸収し、万博閉幕後も欧州各国を歴訪して金融・経済・産業についての理解を深めました。中でも、資本主義の根幹となる銀行や株式会社などについて多くを学んだ経験が、明治になって実業家として活躍するうえで全面的に役立つことになります。
しかし実はその欧州滞在中にも、新たな危機に直面していました。栄一らを送り出した肝心の幕府が崩壊したのです。欧州滞在費用も底をつき、1868年(明治元年)にやむなく帰国しました。
帰国後は、慶喜が隠遁生活を送っていた静岡にしばらく移り住んでいましたが、翌1869年(明治2年)、明治新政府が栄一に出仕するよう命じてきました。はじめは断ったのですが、これも受けざるを得ず、結局、民部省(後に大蔵省と合併)の役人となりました。
またまた不本意な転身となったわけですが、前述のように富岡製糸場や国立銀行条例制定など新しい国づくりの中核を担うことになったのでした。
このように栄一は何度も危機に陥り挫折しましたが、あきらめることなく、時には転身を図って乗り越えてきました。しかも、その過程で得た経験を糧として、自分の力を最大限に発揮し、新しい道を切り開いてきたのです。
そこには人の助けもありました。それも、ただ単に幸運だったというだけではありません。栄一の能力を評価して、あるいは頑張っている姿を見て力を貸してくれたのです。
ちょうどその頃、日本は欧米列強による植民地化の危機を乗り越え、近代化を成し遂げました。栄一は自分の人生とともに、日本という国のピンチもチャンスに変えたのでした。
このような彼の人生は、コロナ禍に苦しむ現在の我々を大いに元気づけてくれます。渋沢栄一からパワーをもらって、みんなで協力し合ってコロナ禍を乗り越えましょう!
(「中」に続く)