テレビ画面を注視していたかどうかが分かる視聴データを独自に取得・分析するREVISIOでは、10月25日に放送されたNHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』(総合 毎週日曜20:00~ ほか)の第41話「家康の野望」の視聴分析をまとめた。

  • (左から)松下洸平、仲野太賀=『豊臣兄弟!』第41話より (C)NHK

    (左から)松下洸平、仲野太賀=『豊臣兄弟!』第41話より (C)NHK

「明日は見せかけで構わぬ。されどいつの日か…」

最も注目されたのは20時27分で、画面注目度68.6%。秀吉(池松壮亮)が家康(松下洸平)に真の臣従を求めて頭を下げるシーンだ。

家康の接待の場は騒然としていた。家康の息のかかった刺客が秀長(仲野太賀)に矢を放ったのだ。その秀長を間一髪で守ったのは、なんと家康自身だった。「これは何の騒ぎじゃ!」と騒ぎに気づいた秀吉が駆けつけ、矢を受けてうずくまる家康の姿を認めると、「徳川殿、よう参られた。早う手当てせい!」と命じた。

家康の手当てが済むと、秀吉、秀長と家康の3人は別室に移った。「どうじゃ? この羽織、似合うておりますかな?」と尋ねる秀吉は、いつものきらびやかな衣装ではなく、家康とよく似た羽織を身に着けていた。「そんなもの、いつの間に」と驚く家康に、秀吉は「ああ、あさひが送ってきたのよ。徳川殿に会う時はこれを着ろと」と説明する。

秀吉は家康の前に座り、いつになく真剣な表情を向けた。「徳川殿。分かり申した。真の臣従をせよなどと、傲慢であった。ここまで足を運んでいただき、頭を下げていただく、それだけで十分でござる」と腹を割ると、傍らに控えていた秀長も「確かにそうじゃな。あの手この手と策を講じてみたところで、人の真の心を奪うなどできんわ」と同意した。家康は何も言わずに兄弟の言葉に耳を傾けている。

さらに秀吉は、自分がここまで来られたのは家康のおかげだと続けた。かつて織田信長(小栗旬)と家康が清州同盟を結んだ際、見送りを務めた秀吉に家康がかけた「熱意が人を動かし勝敗を決する」という言葉を、今も胸に刻んでいたのだ。「いつも道に迷うた時はあの時の言葉を信じて前に進むことができ申した」と語る秀吉に、家康はいぶかしげな表情を見せる。

秀吉はさらに家康に近づくと、「徳川殿、明日は見せかけで構わぬ。されどいつの日か、真の心で通じ合えると信じておりまする。共に支えあって行きましょうぞ」と深く頭を下げた。しかし家康は何も言わず、そのまま部屋から立ち去ろうとする。

ところが、ふと立ち止まり、「秀長殿の最後の問いに答えておりませなんだな」と秀長を振り返った。秀長は接待の席での騒動の前、家康にどのような世を作りたいのかと問うていた。大切なものを守るため、奪われる前に奪うのだと自らの思いを明かした家康は、「だが、そなたらの目指す世も、悪くはなさそうじゃ」と言い残し、その場を去っていった。

  • 『豊臣兄弟!』第41話の毎分注視データ推移

    『豊臣兄弟!』第41話の毎分注視データ推移

「秀吉が着飾った言葉を使わなかったから家康に届いたんだろうな」

このシーンでは、ついに上洛した家康と、真の臣従を求める秀吉・秀長兄弟のやり取りに視聴者の注目が集まったと考えられる。

6万という大軍勢を引き連れ、ついに上洛した家康は、秀吉の右腕である秀長を暗殺する腹積もりだった。しかし、秀長との問答で心が揺れる。家康はかつて織田信長の命で正室・築山殿と嫡男・松平信康を失ったが、秀長も信吉(若林時英)、直(白石聖)、与一郎(大西利空)という大切な人々を失っていた。そんな秀長を、家康は自らが企てた暗殺計画から身を挺してかばったのだ。

そして、ようやく交渉の場についた家康に、秀吉は胸襟を開き、足軽だった自分に家康がかけた言葉が支えになっていたことを明かした。1563(永禄6)年当時、足軽だった秀吉など家康にとっては取るに足らない存在だったが、今では立場が大きく変わってしまった。

SNSでは「秀長は許嫁と養子、家康は正室と実子を亡くしてるから実は似た者同士なんだねこの2人」「今作の家康は人間臭くて良いよね」「秀吉が着飾った言葉を使わなかったから家康に届いたんだろうな」と、家康の上洛と兄弟との対話にコメントが集まった。

史実でも家康は、上洛した際に大坂の秀長の屋敷に宿泊している。これは家康の警戒心を和らげるためだったと考えられており、その接待の場には秀吉も出向いて歓待した。本来は家康が秀吉のもとへ出向く立場だが、秀吉の側から訪問することで、敵対関係の終結と歓迎の意思を示したとされる。秀吉の妹・あさひ(倉沢杏菜)を正室として迎えた家康は、秀吉・秀長とは義兄弟の関係でもあり、豊臣側は家康を親族かつ有力大名として厚遇したとされている。

また、家康が京都に滞在する屋敷を建てる際、工事責任者となったのが藤堂高虎(佳久創)だった。高虎は秀吉側から渡された設計図に防衛上の欠陥があると判断し、秀長の許可を待たず、自費を投じて門や防備を強化した。家康はその心遣いに感謝し、2人の信頼関係が深まった。

その後、高虎は関ヶ原の戦いで家康に協力し、江戸城の普請や各地の城郭整備でも才能を発揮することになる。高虎にとっても、家康の上洛は一つのターニングポイントだった。