実は26年版の『GTO』には、初回からある不満の声がSNSでささやかれていた。それは、「令和の高校生はこうだと決めつけているような違和感がある」といった声だ。だが第5話を見て、その違和感は少し違って見えてきた。
そもそも『GTO』は漫画を原作にした作品である。今回の続編はオリジナルストーリーとはいえ、その物語の作法には、漫画的な「記号化」が色濃く残っているのではないだろうか。
これまでにも、恋愛を「コスパが悪い」と切り捨てる琴音、壮大な夢を語ることを恥じる歩夢、周囲から求められる「明るい自分」を演じ続けた百花と、生徒たちはそれぞれ、令和をめぐって語られる問題を少々極端なほど分かりやすく背負ってきた。
そして今回の航もそうだ。父親が借金を残して失踪し、母親はケガ。学費を滞納し、自分だけで問題を抱え込み、「学校なんて時間の無駄」と退学しようとする。ここだけを取り出せば、いささか出来すぎた設定にも見える。
しかし、この“分かりやすすぎること”こそ、実はエンターテインメントにおける一つの技術なのだ。
連続ドラマの1話は約1時間。その限られた時間の中で、一人の生徒がどんな環境に置かれ、何に苦しみ、なぜ他人を拒絶するようになったのかを、視聴者に理解させなければならない。そこで物語は、人物にいくつかの分かりやすい「記号」を持たせる。
航が悪態をつき、母親にも冷たく接する姿を見れば、まず視聴者には「感じの悪い生徒」として映る。しかし、学費の滞納、父親の失踪、母親の怪我という情報が提示された瞬間、その反抗的な態度は別の意味を持ち始める。「ああ、この子は怒っているのではなく、追い詰められているのだ」と。
長い説明はいらない。物語の記号がそろった瞬間、視聴者自身がその人物の内側を補完し始めるからだ。だからこそ、展開自体はある意味で“ベタ”なのに、鬼塚を殴りながら航が感情を爆発させる場面では胸を動かされる。
むしろ、ベタだからこそなのかもしれない。人は物語の展開をまったく予測できないから感動するとは限らない。「この少年は、本当は誰かに助けてほしいのだろう」「最後には鬼塚がその本音を引きずり出すのだろう」と、どこかで分かっている。それでも、その瞬間が実際に訪れた時に涙が出る。
水戸黄門の印籠から恋愛ドラマのすれ違いまで、物語には古くから繰り返されてきた「型」がある。重要なのは、型を知っているかどうかではなく、その中にどれほどの感情を流し込めるかだ。『GTO』もまた、その意味では非常に漫画的であり、古典的なドラマなのだろう。
人物を大胆に記号化し、問題をデフォルメし、鬼塚というさらに巨大な記号をそこへぶつける。複雑な社会問題を精密に再現するのではなく、その核心だけを抜き出して、1時間の人間ドラマへと変換する。
28年経っても変わらない『GTO』の強さ
そして第5話では、その装置がようやく気持ちよく回り始めたように思う。航は「貧困に苦しむ高校生」という記号だけでは終わらなかった。鬼塚を殴る拳に、それまで説明されなかった悔しさや惨めさ、母親への思い、自分の将来への恐怖が一気に流れ込んだ。
柏原も同じだ。これまで「冷めた令和の教師」として配置されてきた彼女が、「学校辞めてくれた方が仕事も減って楽」と一度突き放したうえで、最後には「子どもが困った時、助けるために大人がいるの」と言い切る。記号だった人物の奥から、突然、人間が顔を出す。この瞬間こそ、漫画的なキャラクター造形の醍醐味なのではないだろうか。
分かりやすいから浅いのではない。分かりやすい「型」を先に作っておくからこそ、そこから人物がはみ出した瞬間に、感情が生まれる。第5話がこれまで以上に「昔の『GTO』らしい」と感じられた理由も、単に鬼塚が暴走族らしさを取り戻したからだけではないのかもしれない。
極端な人物。極端な境遇。極端な解決方法。それらを承知のうえで、最後にはなぜか人間の感情だけが生々しく残る。それこそが、漫画から生まれた『GTO』という物語が、28年を経てもなお持っている強さなのだろう。







