第4話を見て、筆者は胸が痛くなった。今回、物語の中心に置かれたのは「同調圧力」だった。なぜ苦しくなったのか。それは、筆者が学生だった昭和後期~平成初期にも、同じ「空気」が確かに存在していたからだ。
「周囲の期待を読み、自分に求められた役割を演じる」という行為そのものは、決して令和に始まったものではない。昭和にも平成にも、「クラスの人気者」「いじられ役」「真面目な子」「不良」といった役割はあった。空気を読み、集団からはみ出さないよう振る舞うことも、日本の学校社会では長く繰り返されてきた。
では、令和では何が変わったのか。一つは、学校の「空気」が学校の中だけでは終わらなくなったことだ。
かつてなら、少なくとも教室を出れば、その人間関係から物理的に距離を置くことはできた。もちろん、昔にも電話や地域社会、放課後の人間関係はあり、学校から完全に自由になれたわけではない。しかし現在は、クラスの人間関係がSNSやグループチャットを通じて、帰宅後も休日も継続する。
社会学・メディア研究では、SNSの特徴として、発言が残る「持続性」、多くの人に見られる「可視性」、複製・拡散されること、検索できることなどが指摘されてきた。つまり、教室で一瞬生まれた「空気」が、ネット上では消えずに残り、場所を越えて持ち運ばれるのである。
さらに重要なのは、「空気」が数値や反応として見えるようになったことだ。誰が「いいね」を押したのか。何人が反応したのか。誰が既読なのに返事をしていないのか。SNSでは、かつて曖昧だった他者からの評価が、部分的とはいえ可視化される。「いいね」やコメントなどが承認の基準になりやすいことも研究で指摘されている。
昭和の同調圧力が「空気を読め」だったとすれば、令和では、その「空気」そのものに数字やログがついてくる。誰かが明確に命令しなくても、チャットの反応を見れば「みんなはこう思っているらしい」と感じることができる。多数派が本当に多数派なのかどうかすら分からない。それでも、数人の反応が「クラス全体の空気」のように見えてしまう。
いわば、令和の同調圧力とは、「可視化された空気」なのである。そして、百花の苦しさも、そこに重なる。
社会学では、若者が人間関係を円滑にするため、自らを「キャラ化」する現象が論じられている。実際、青年期の友人関係を調べた研究でも、集団の中で割り振られた「キャラ」に合わせて振る舞うことと心理的な不適応との関連が、中学生では確認されている。百花はまさに、「明るい子」「盛り上げ役」というキャラから降りられなくなった少女だ。
一度定着した「百花らしさ」は、本人が黙っていても周囲によって再生産され続ける。令和の今は、空気がネットワーク化され、可視化され、記録され、学校の外まで追いかけてくるようになった。
だから百花が言った「自分のことを知らない人がいる場所へ行きたくなった」という言葉は重い。彼女が欲しかったのは、単なる家出先ではない。「百花というキャラ」がまだ登録されていない場所だったのかもしれない。

