内田有紀と寺西拓人がW主演を務めるフジテレビ系ドラマ『ラストノート』(毎週木曜22:00~ ※FOD・TVerで見逃し配信)が、9日にスタートした。
本作は、20歳差という年齢はおろか、育った環境や経験にも大きな隔たりがある“恋をするはずがない/恋するわけにはいかない”男女が惹かれ合う大人のラブストーリー。
“最後の恋”を想起させる意味深なタイトルに、年の差恋愛を描くというテーマ。そして“大人の純愛”を掲げたコピーと、主演の2人が無垢にほほ笑むキービジュアル…。それら事前の情報からは、どう見ても、年の差という枷だけで描く純愛ラブストーリーだと“思わされていた”。しかし、それは鮮やかに裏切られた――。
ただの恋愛ドラマでは終わらない
今作のプロデューサーは、『昼顔~平日午後3時の恋人たち~』(=不倫)や、『あなたがしてくれなくても』(=セックスレス)、『わたしの宝物』(=托卵)など、恋愛という題材を単なる恋愛ドラマに終わらせなかった三竿玲子氏だ。本作もまた、序盤から少しずつ不穏な空気を漂わせ、その不穏が頂点に達した瞬間、意外にもそこから本作の本質である“純愛”をのぞかせてみせた。
視聴者の予想を二重にも三重にも裏切りながら、本来描きたかったテーマへと導いていく。その構成力だけでも、本作がただの恋愛ドラマでは終わらないことを十分に物語っていた。
そして、このドラマが本当に“試している”のは、私たち視聴者だ。
「大人の純愛ドラマ」と銘打ち、第1話のサブタイトルにも「純愛」という言葉が入っている。しかし、第1話を見終えた時点で、この作品を純愛ドラマだと言い切れる人はどれほどいただろうか。おそらく、多くの視聴者はそうは思えなかったはずだ。
ロマンス詐欺まがいの手口で近づく青年・澄晴(寺西拓人)と、そんな彼の素性を知りながら友人のために復讐を企てるヒロイン・葵(内田有紀)。その騙された友人や、“毒親”との確執、その双方に成り立ちそうな三角関係の予感…。通常であれば、「純愛」とは真逆に見える材料ばかりが並んでいる。
だからこそ、このドラマは私たちに問いを投げかけている。この物語を“純愛”として見ることができるのか?と。
“ネタドラマ”にならず物語へ巻き込む
だが、本作が“試している”のはそれだけではない。俗に言う“ネタドラマ”にも見えてしまう危うさを抱えていることだ。あからさまな人物、分かりやすい伏線、偶然が度重なる展開。そんな要素が積み重なることで、“ネタドラマ”と呼ばれる作品は生まれる。
今作においても終盤、葵を呼び出した澄晴が花束を持って現れた次の瞬間、父親が乱入し、花束を踏みつけにする。そして2人はそこから逃げるように手をつないで走り出す――。
そのあらすじだけを追えば、さすがにドラマチックが過ぎる“ネタ”的展開だっただろう。しかし、不思議と飲み込めてしまうのが今作の魅力だった。
そうなのだ。三竿作品にはいつも、どれほどドラマチックでネタのような出来事が起ころうとも、写実的なリアリティとはまた違う、不思議と現実として受け止めてしまう説得力がある。客観的に見れば“ありえない”はずなのに、その渦の中へ自然と引き込まれ、自分自身の物語として受け止めてしまう力を宿している。
つまり本作は、“ネタ”として距離を置くのか、それとも物語として飛び込むのかまで、私たち視聴者を“試している”のである。だから本作もまた、“ネタ”として消費されることなく、視聴者自身を物語へ巻き込むことに成功しているのだ。
怪しさと優しさを同じだけまとう寺西拓人
何より、その世界観を成立させている最大の理由は、主演2人の魅力にある。
内田有紀演じる葵は、詐欺だと分かっていながら近づいていく強さを持ちながらも、その先でつい揺れ動いてしまいそうな繊細さも同時に宿している。その危うい感情の揺らぎを、実に自然に演じていた。
一方の寺西拓人も実に興味深い。彼が意図して抑えた芝居をしているのか、それとも視聴者がまだ彼という俳優を十分に知らないからなのか。その“分からなさ”が、この役に大きな魅力を与えている。
設定だけを見れば紛れもなく詐欺師である。それなのに、表情やたたずまいには、本当は違うのではないか?と思わせる余白がある。怪しさと優しさを同じだけまとっている。だからこそ、視聴者も葵と同じように彼を信じ、奇跡を感じてしまいそうになった。
視聴者を試しているということは、言い換えれば、ドラマからの挑戦状である。
偽りで近づき、偽りと知りながら出会った男女の物語。それでもなお、このドラマが描こうとしているものを“純愛”だと信じられるのか。第1話を見終えた今、この挑戦に喜んで乗ってみたい。そう思わせるだけの力を持った作品であった。



