北村匠海が主演を務めるフジテレビ系ドラマ『サバ缶、宇宙へ行く』(毎週月曜21:00~ ※FOD・TVerで見逃し配信)の第2話が、20日に放送された。

本作は、海辺の町で教師になるという“なんとなく”の動機で、とある田舎町の水産高校に赴任してきた新米教師が、同じく“なんとなく”日々をやり過ごしてきた生徒たちと出会い、高校自慢の「サバ缶」を宇宙食にするという夢に向かっていく、実話をもとにした青春学園ドラマ。現実的であることばかりが求められる時代に、第2話は“心が洗われる”ような1時間だった。

  • 『サバ缶、宇宙へ行く』主演の北村匠海 (C)フジテレビ

    『サバ缶、宇宙へ行く』主演の北村匠海 (C)フジテレビ

テレビドラマは現実からの逃避先のはずだった

世の中は決して清廉ではない。そんなことは誰もがわかっている。

だからこそ、真に純粋な思いや、まっすぐな熱意に対して、どこか嘘臭さを感じてしまうし、ときに嘲笑すらしてしまう。純粋な思いを貫けば幸せは待っているのか?まっすぐな熱意の先に報われる未来はあるのか?どうしてもうがった見方をしてしまう。それは世の中が、あまりにも清廉ではないからだ。

もしこの世界がもう少しシンプルで、無垢な気持ちを大切にできるものだったなら、今もどこかで続いている争いすら、起こらなかったのではないか――そんなことも考えてしまう。

だからこそ私たちは、純粋な思いや、まっすぐな熱意をフィクションに求める。そして、せめて何気なくつけたテレビドラマの中だけでも、現実を忘れ、別の人生を生き、憧れ、夢を見たい。

しかし、そんな“逃避先”であるはずのテレビドラマにも、今や“現実”が押し寄せてくる。

キラキラとした世界観は“非現実的”とされ、設定の細部までリアリティが求められる。犯罪者ですらシートベルトを締め、安全を啓発しなければならないという矛盾を抱え、努力は報われない方が“リアル”とされ、夢を語ることすらバカにされる。

けれどそれで、いいのだろうか?

本作『サバ缶、宇宙へ行く』は、そんな現実に対して、真っ向から、まっすぐに、私たちへ訴えかけてくる。

夢そのものを否定する登場人物がいない

このドラマでは、登場人物たちが当たり前のように煌々(こうこう)と夢を語る。そしてそれを嘲笑う者はいない。疑う者もいない。まっすぐな熱意が向けられれば、それに応えようとする人間が、当たり前のようにそこにいる。現実での“バカ”が、この物語の中では肯定される。

そしてその世界を目の当たりにしたとき、私たちはそれを嘲笑うのではなく、“心が洗われる”のだ。

純粋な思いを受け止められないこと、まっすぐな熱意を信じられないことこそが、“現実”ではなく“歪み”なのではないか。当たり前のことを思い出させてくれる。

夢を語ることの本質とは、その先にある現実を測ることではなく、“今この瞬間を人間らしく生きること”そのものなのではないか?

今回の第2話は、自分たちが作る「サバ缶」を宇宙食にするための基準「HACCP(ハサップ)」をクリアするべく、教師と生徒たちが知恵を出し合うというストーリーだった。

もしこの骨子を、いわゆる“現代ドラマ的なリアリティ”に寄せて描くのであれば、HACCPを取得するという“夢”に懐疑的な生徒たちを多数配置し、主人公である教師が熱意でそれを説得していく、そんな展開となるだろう。夢物語に寄り過ぎていると見られないための“配慮”として。

しかし本作は、そうしたわかりきった“小手先”に頼らなかった。多くの生徒たちは最初から前向きで、疑うことなく協力する。懐疑的な生徒も確かに存在するけれど、その理由は“夢そのものへの否定”ではなく、“素直になれないこと”である。

そして教師である朝野(北村)もまた、決して熱血的なリーダーとして描かれない。むしろ、無自覚に発した言葉や、飾らない何気ない一言が、生徒たちの背中を押していく。

こうした一つひとつのエピソードを、本作は過剰にドラマチックに加工することなく、あくまで真っすぐに紡いでいく。むしろ本作は、そうした疑いの視線すら抱かせず、気付けば邪念が入り込む余地すらない、その純粋さに心を委ねてしまっているのだ。

この物語は、夢を信じることの尊さを押し付けるのではない。ただただ静かに差し出してくれる。そして気づけば、こちらの“心が洗われる”のだ。

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